野間神社

豊能郡能勢町地黄399 (平成31年4月6日)

東経135度27分33.32秒、北緯34度56分58.47秒に鎮座。

この神社は、能勢電鉄妙見線・妙見口駅の北北東5km程の辺り、地黄の街中に鎮座しております。

御祭神 饒速日命・宇賀御魂神・菅原道真・草野姫命・野見宿弥

由緒
当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿弥」となつている。「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿弥は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より御霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834〜48)より、当地は朝廷典薬寮の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573〜92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。
以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658〜61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の東側に建立された。明治40年には、領内最奇りの神社9社が当社に合祀された。
祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
境内由緒書き より。

神社入口

境内

拝殿

本殿


七郎神社 辨天神社・住吉神社

末社