石上神宮

天理市布留町384(平成23年1月4日)

東経135度51分12.98秒、北緯34度35分38.94秒に鎮座。

 この神社は天理駅の東南東約2km、天理大学の東側に鎮座しています。
 今回の奈良の旅で、最初に参拝させていただいた神社です。お正月なので参道には露天が並んでいましたが、まだ早朝なのでどのお店も閉まっています。その参道を進み、「布都御魂大神」と記されている木製明神鳥居を潜ると広場があり、左に社務所、右に手水と鏡池。この辺りには放し飼いになっている鶏が闊歩しています。
 回廊脇の石段を上ると左手に重要文化財の楼門が建立され、右手には拝殿が国宝に指定されている出雲建雄神社等の境内社が祀られています。又、参道を右に進むと山の辺の道へと続きます。
 楼門を潜ると境内で、国宝に指定されている大きな拝殿が建立され、奥に本殿があるのですが屋根しか見えませんでした。拝殿右側には祓戸神社と思われる境内社が建立されています。
 この社には数十年程前に参拝しているのですが、今回の印象と余りにもかけ離れた記憶に戸惑いを思えました。前回は極普通の日だったので人影もなく静かな雰囲気の神社でしたが、今回はお正月の所為もあり落ち着いた佇まいの中にも華やかな印象があり、何よりも前回は回廊に七支刀が展示されていたように記憶しているのですが、今回は見られなかったのが残念でした。

 御祭神:布都御魂大神、配祀:布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣
 祭礼日:歳旦祭(1月1日)、 元始祭(1月3日)、 古神符焼納祭(1月15日)、 玉の緒祭(節分前夜)、 節分祭(節分当日)、 祈年祭(2月19日)、 献燈講講社大祭(第1日曜日)、 春季大祭(4月15日)、 長寿講社春季大祭(5月3日)、 神剣渡御祭(でんでん祭)(6月30日)、 大祓式(6月30日)、 崇敬会大祭(第1日曜日)、 榜示浚神事(10月1日)、 例祭(ふるまつり)(10月15日)、 長寿講社秋季大祭(11月3日)、 鎮魂祭(11月22日)、 新嘗祭(11月23日)、 お火焚祭(12月8日)、 天長祭(12月23日)、 神庫祭(12月31日)、 大祓式(12月31日)、 除夜祭(12月31日)、 月次祭(毎月1日・15日)
 境内社:出雲建雄神社、天神社、七座社、猿田彦神社、神田神社、祓戸神社、 恵比須神社(境外末社)
 由緒:式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
 別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神、等。付近で立教した、天理教の初期資料で、幕末 - 明治期に地元では『いわがみさん』と呼ばれていた事が判る。尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。
 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する、非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
 社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
 神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。
 中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
 この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

参道入口
社号標 木製明神鳥居
参道の様子
風情ある手水 鏡池
参道には放し飼いの鶏が闊歩しています。
石段の参道
回廊と楼門
重要文化財の楼門 参道側からと境内から
棟木に文保2年(1318)卯月29日の墨書銘がある。桁行二間二尺、梁間一間五尺の重層檜皮葺の入母屋造で、上層は和様、柱は円柱で美しい曲線美が感じられる。この楼門を一名鐘楼門ともいい、氏子有事の際に鐘をついてしらしたそうである。 (「天理市公式サイト」より)
境内の様子
国宝・ 石上神宮拝殿 棟札六枚付
 永保元年(1081)白河天皇が鎮魂祭のために宮中の神嘉殿を移建せられたものと伝えられ、その構造は壮重雄健で全国に現存する拝殿では最古のものである。文明2年(1470)貞享元年(1684)享保18年(1733)元文5年(1740)寛政10年(1798)安政6年(1859)の修復、上葺等による棟札六枚と共に国宝に指定されている。 (「天理市公式サイト」より)
拝殿正面・内部
本殿(後ろのわずかに見える屋根が本殿の屋根です)
拝殿右側に祀られる境内社:祓戸神社?

境内社:出雲建雄神社拝殿(国宝)
内山永久寺(天理市杣之内町にあった廃寺)から1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。建物の中央部分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式。
境内社:出雲建雄神社鳥居
境内社:出雲建雄神社本殿(祭神 出雲建雄神。式内社)
境内社:猿田彦神社

境内社:天神社、七座社入口
境内社:天神社
境内社:七座社
ご神木
ご神木