素盞鳴(すさのお)神社

岡山市南区飽浦1389(平成21年8月22日)

東経133度58分45.00秒、北緯34度35分09.52秒に鎮座。

 この神社は光南台中学校の南東約400mに鎮座しています。神社庁届け出の社名は素盞嗚神社ですが、地元の通称では飽浦稲荷宮と呼ばれ、稲荷神社としての御利益が多大なようで、入口から本殿まで同規模の鳥居や社殿などが、建立奉納されています。その為、拝殿は双殿造りと呼ばれる2つの社を1つの拝殿で繋ぐ、珍しい形式で造営されています。この造りは岡山で三社目(都窪郡早島町・鶴ア神社、南区箕島・箕島神社)です。

 御祭神:素盞嗚尊
 祭礼日:月1日・元旦祭、3月20日に近い土曜日・御日待祭、10月第2土・日曜日・秋季例祭
 境内社:飽浦稲荷宮、地神、稲荷大明神、金刀比羅神社、金神社、荒神社他
 由緒:『 網引きする海女とか見らむ飽の浦の  清き荒磯を見に来しわれを』と飽浦の地は、『万葉集』巻7に詠まれている。
時は平安時代末期、源平合戦の代、京を追われた平家は、児島の藤戸(現在の倉敷市藤戸町)に陣をはった。源氏方は対岸に陣をはったが、船が揃わなかった為に、平家を攻めあぐねていた。
しかし、源氏方の武将 佐々木 三郎盛綱は、一ケ所だけ馬で対岸まで渡ることができるという 海の道が在ることを、近くの漁師より教わった。そのお陰で彼等は先陣をきって馬で対岸へ渡り、源氏方に大勝利を納めるきっかけをつくった。(平家物語「藤戸の渡し」の段,この後 檀ノ浦 の合戦に至る。)
後に、佐々木三郎盛綱は、その戦功として、将軍 源 頼朝から、児島全土と小豆島一帯に及ぶ広範囲な領地を賜わった。 以後、佐々木氏一族は、飽浦の地に居城(現在の高山城跡)を築き、地名にちなんで、氏名も『飽浦 三郎』と名乗った。
 この土豪、飽浦氏一族の守護神として奉斎した神が、素盞嗚神社に鎮座されている素盞嗚尊である。
また、稲荷宮は、この後鎌倉時代末期の建武年間に、飽浦三郎の子孫である 飽浦三郎右衛門信胤が深く信仰した、山城国伏見(現在の京都市伏見区の伏見稲荷大社)から御霊を勧請し、飽浦の地に建立したと伝えられている。
江戸中期から栄え、城下からも参詣者が多く訪れたという。江戸時代後期には、城下の東中島町で問屋業を営む商人が、商売繁盛を祈願して奉納した回船の絵馬が、往時を物語っている。
 江戸時代の書物『備陽記』によれば、『岡山京橋まで陸路十里、同じく船路二里八町、反別22町余り、家数49人数276、二端帆から三端帆までの船2、池9。神社は素盞嗚神社・稲荷神社があり、両社は同一境内にあり、本殿は別だが拝殿は両社共通の特異な建て方である。』と言う記述があり、この頃より現在のような建築様式であったとうかがえる。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)

左・飽浦(あくら)稲荷宮 右・素盞鳴神社
入口の鳥居
拝殿全景
双殿造りと呼ばれ、2つの社を1つの拝殿で繋ぐ珍しい形式の拝殿です。
二社を護る天保5年生まれの御眷属・神狐さん
(天保5年(1834)4月吉日建立)
拝殿
本殿
入り口から本殿までの拡大写真はこちらで
稲荷宮幣殿左と幣殿下に分かれて置かれた、建立年代不明の御眷属・神狐さん
お狐様の拡大写真はこちらで
幣殿下に祀られている稲荷社と備前焼神狐さん
幣殿下に祀られている稲荷社二社
境内社:地神 境内社:稲荷大明神
境内社:金刀比羅神社 境内社
境内社:金神社 境内社:荒神社