戸隠神社五社

戸隠神社五社案内と信仰遺跡案内

 戸隠神社は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に奥社・九頭龍社・中社・火之御子社・宝光社の五社を配する神社です。
歴史
 一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210)とも言われていますが、縁起によれば学問という僧が奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849)とされています。
 その後平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めました。山麓の善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かったようです。
 戦国時代は武田信玄と上杉謙信との争乱に巻き込まれ、両軍によって絶えず危機に晒されたたため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期でした。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて東叡山寛永寺の末寺となると、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していきました。
 明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となりました。

構成各社と御祭神
 各社の主祭神は、地主神である九頭龍大神以外は「天照大神が、弟である素戔嗚尊の度重なる非行を嘆いて天岩戸に隠れたため、この世に暗黒と悪神がはびこった」とされる神話にまつわる神ですが、それぞれがいつ頃から現在の祭神を祀るようになったかは必ずしも明らかではありません。しかし他の多くの神仏習合の神社とは異なり、祭神は江戸時代以前から変わっていません。
 
 奥社:創建は古く、人皇第八代孝元天皇の5年(皇紀207)と伝えられ、御祭神は天手力雄命で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神です。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされます。参道途中に朱の随神門(山門)が建ち、その奥は17世紀に植樹された杉並木になっています。神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に奥社院坊が立ち並んでいました。旧奥院。
 九頭龍社:御祭神は九頭龍大神で、現在は奥社のすぐ下にあり境内社のように見えますが、創建は奥社より古くその時期は明らかでありません。地主神として崇められています。
 中社:現在地への鎮座は寛治元年(1087)、宝光社と同時期に奥社の相殿として創建されました。現在の御祭神は天八意思兼命で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神で、知恵の神ともいわれます。境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されています。旧中院。
 火之御子社(=日之御子社):創建は天福元年(1233)。祭神は天鈿女命。他に高皇産霊命、その娘である栲幡千々姫命、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命を祀っています。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神です。舞楽や芸能、また火防の神とされます。尚、他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であって、かつての顕光寺とは関係がありません。
 宝光社:現在地への鎮座は康平元年(1058)で、天暦3年(949)に奥社の相殿として創建されました。祭神は天表春命で、中社の祭神である天八意思兼命の御子神です。学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされています。鬱蒼とした杉木立の階段を上って参拝します。旧宝光院。
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