若宮八幡神社

大崎市三本木新沼若宮113(平成19年7月26日)

 この神社は国道4号線を北上してきて鳴瀬川を渡ったら左折。157号線に入り東北自動車道の高架下を通り尚も1.1km程進むと右側の土堤下に鎮座しています。神社の入口には社号標と「敷玉若宮遺跡(奈良平安時代の遺跡)」の案内が立ち、参道はすぐに右に90度曲がっています。曲がり角に建つ一の鳥居を潜ると、木々に覆われたとても気持ちの良い参道が続きます。境内入口には朱の両部鳥居が建ち、 「若宮八幡神社」「敷玉早御玉神社」の社額が架かっていました。正面の拝殿は重厚で、その奥には神明造の本殿が建てられています。その他境内には、鐘楼、沢山の境内社、板碑などがありました。

 若宮八幡神社・主祭神:応神天皇(誉田別尊)、仁徳天皇(大鷦鷯尊)、神功皇后(息長帯比売命)、配祀:建御名方命、木花咲耶姫命、武内宿禰命
 敷玉早御玉神社・御祭神:豊玉姫命 、玉依姫命
 例祭日:春季例祭・旧4月15日、・秋季例祭・旧9月19日(旧9月18日・特殊神事「湯花神事」)
 境内社:神明社、稲荷明神社、蘆穂山(石神)、高倉招魂社
 由緒:
 「本社若宮八幡神社」
後鳥羽天皇の御宇文治5年(1189)鎮守府将軍・源頼朝公が奥州・藤原泰衡を平定し凱旋のおり、敷玉早御玉神社の近地内を清め、鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を奉齋し、奥羽鎮護の神として創建されました。社殿の建立は畠山重忠武田太郎の両武将監督のもとに進められ、創建当時の社殿は七間四面・布目瓦葺の社殿で最も荘厳を極めたといいます。別当には奥州平定に参加した渋谷荘司重国の子渋谷三郎時国を剃髪させ、名を宥全と改め別当寺を建立亀谷山穏城寺と称し、世襲別当とし今日に至りました。
 天正16年(1588)伊達政宗が大崎氏を攻めるに当たりその兵火にかかり、社殿・別当寺・僧房全てが焼失し、一時は祭祀が途絶えたこともありましたが、兵乱が治まり世の中が平和となった時、社殿を再建立、別当も復職し、祭祀を再興し、社領(旧村十ケ村)も定まり、旧に復すことができました。安政2年(1855)現社殿が落成し遷座されました。明治3年(1870)村社に列し、のち郷社敷玉早御玉神社を合祭。昭和18年(1943)郷社に列しました。なお旧境内は現堤防の外(現河川敷・奈良平安時代の遺跡が包含されている)にあり、大正3年(1914)鳴瀬川河川改修に伴い、現境内(旧別当寺跡)に移転し、今日に至りました。
 「延喜式内社 敷玉早御玉神社」
 第12代景行天皇12年(83)日本武尊が東夷を征討し凱旋の途中、荒狂う海で后弟橘媛が海神の怒りを鎮めんとして海中に身を投じ、日本武尊が無事相模灘を渡られたことに想いを馳せ、慰霊の念により海神である二柱の神を祀り建立された神社で、延喜式神名帳(905)に名神小社として登載されています。後寶亀11年(780)藤原小黒丸により戦勝を感謝し、社殿を再建立しましたが、天正年中の兵乱により若山八幡神社とともに焼失し、以後社殿の建立がなく「敷玉森」としてその名を止めていました。その滅失を憂い文政元年(1818)別当第40代渋谷秀盛が社名と縁起を刻し、石碑を建立しました。現在敷玉社は本殿に奉齋され、若宮と同時に祭祀がおこなわれています。この神社が奉齋されていたことが、此地に若宮八幡神社が創建奉齋される動機となったと伝えられています。所謂此の地の先覚神ともいえます。明治5年郷社に列し、明治38年社殿再建立の計画を願い出ましたが実現はできませんでした。昭和18年に若宮八幡神社に合祀されましたが、歴史現在社の消滅する事を憂い、平成3年再び分祀。攝社として奉齋し、その歴史を永劫に伝えることとしました。
          由緒書きは此方で

社号標
「式内敷玉早御玉神社 若宮八幡神社」
案内
「敷玉若宮遺跡(奈良平安時代の遺跡)」
神社入口
  
参道の一の鳥居 参道の様子
境内の二の両部鳥居 二の鳥居の社額
「若宮八幡神社」
「敷玉早御玉神社」
拝殿前、年代不明のはじめタイプ狛犬
置き方は普通ですが、阿吽の位置は反対です。今回見てきた中では、仙台市泉区・賀茂神社(明和3年(1766)3月21日建立)の狛犬と一番似通っていますが、尾の作りが少し異なり、此方の方がより猿に似ていて素朴な感じがします。阿は一度倒れたのか頭部に補修の跡があり、顔面など殆ど判別できません。
狛犬の拡大写真はこちらで
拝殿
拝殿内の様子
「敷玉社」「八幡宮」の額

本殿覆い屋 鐘楼
境内社・高倉招魂社 境内社・神明社、稲荷明神社
境内社・蘆穂山 (石神)
宮司さんのお話では先々代が栃木県足尾山の「足尾神社」から分霊勧請したそうですが、その際「蘆穂山」の字をあてられたのだそうです。因みに此の「蘆穂山」の字を使ってある神社は、この社の他に福島県に一社あるのみだそうです。
湯殿山、羽黒山碑 板碑群
獣魂碑 結衆板碑