皇大神社

福知山市大江町内宮 (平成23年4月17日)

東経135度9分25.57秒、北緯35度25分38.17秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、北近畿タンゴ鉄道宮福線の大江山口内宮駅から0、5キロ程のところにあります。緑豊かな参道を登って行くと、参道中央に麻呂子親王お手植えの杉が堂々と立っていました。次に左手に御門神社が見えてきます。そばには「金のなる石」がありました。勿論、叩いてきました(笑) さらに進むと黒木鳥居と社殿のある境内に到着します。拝殿に向かって、左には栲機千々姫神社と龍灯の杉、右には天手力雄神社が見えます。拝殿、本殿を取り巻くようにたくさんの境内社が並んでいました。

元伊勢内宮 皇大神社
御祭神 天照皇大神
御由緒
人皇第十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に「別に大宮所を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命御杖代となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年の遙かな昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸処(二十余か所)を経て、五十四年後の人皇第十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。
境内由緒書より。全文はこちら。

皇大神社(こうたいじんじゃ)は、京都府福知山市大江町に鎮座する神社である。旧社格は府社。元伊勢の伝承を有す。
元伊勢「但波(丹波)国乃吉佐宮」(『倭姫命世記』)の旧跡であるとの伝承から「元伊勢」を冠して称され、また特に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮であるとの伝承から、「元伊勢皇大神宮」或いは「元伊勢内宮」とも称される。
祭神 皇祖神で伊勢の皇大神宮の祭神である天照大神を祀る。
由緒
『倭姫命世記』に、崇神天皇39年、天照太神を奉じた豊鋤入姫命が鎮座地を求めて但波(丹波)国へ遷幸し、吉佐宮を築いて4年間奉斎したと記すが、社伝によれば、当神社はその旧跡であり、天照大神が吉佐宮から遷座した後もその神徳を慕った人々が引き続き伊勢神宮内宮の元の宮として崇敬してきたといい、元明天皇朝(707 - 15年)に社殿を建立したという。また、それとは別に、用明天皇の皇子麻呂子親王が当地の兇賊を成敗するに際して勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』所引『天橋記』)。
近世以前の沿革は不明であるが、江戸時代には4石3斗4合の社領を有し(天和元年(1681年)の『宮津領村高帳』)、明暦2年(1656年)に宮津藩主京極高国が社殿を造営し(社蔵棟札)、元禄14年(1701年)に同奥平昌成も修造してから歴代宮津藩主もこれに倣ったといい、また60年に1度の式年遷宮も行われていた。
昭和5年(1930年)府社に列し、戦後は神社本庁に参加している。
祭祀 八朔祭(9月1日)
かつて宮津藩主が祈願のため行列をなして参拝したといい、それに因んで大名行列を模して練り歩く神事(練込)が行われる。古くは「笹囃子」もあったという。
社殿
本殿は桁行3間梁間2間の神明造茅葺で、内削ぎの千木を持ち、棟に鰹木を置く。本殿を囲む形でコの字形に末社79社が鎮座している。
ウィキペディアより。

豊鍬入姫命、倭姫命御巡幸地の一つで、但波(丹波)国乃吉佐宮」『倭姫命世記』の旧跡とあります。しかし、宮津市の籠神社も伊勢の一つであり与佐宮ともと称されていたと由緒書にあります。何れにせよ伝説なので、参拝者にはどうでも良いことでしょう。

参道入口

参道途中一の鳥居

参道

麻呂子親王御手植の杉

御門神社。由緒はこちら。

カネのなる石。叩くとお金が成るのでしょうか。

境内入口

二の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿


左右の脇社
本殿を囲むようにコの字形に並ぶ79の末社

龍灯の杉。節分の深夜、龍が灯を献ずると言い伝えられている。