王子神社

横浜市戸塚区柏尾町939 (平成24年7月8日)

東経139度32分58.77秒、北緯35度24分45.6秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR東戸塚駅とJR戸塚駅のほぼ中間の地点、東海道に背を向けて鎮座しています。東海道から神社への道は2か所有りますが、細く入口が分かりずらいです。東海道へ背を向けたおかげでしょうか、静かな雰囲気で居心地の良い境内になっています。首洗井戸跡は近年整備されたのか、雰囲気がありません。場所は分かりづらく、唯一目印になるのは東海道と旧東海道の分かれ道の道標です。道標に地図はありますが、場所の案内はありません。

御祭神 護良親王

御由緒
護良親王が弑せられ給うた時、侍者、その御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、ひそかに現本殿の位置に埋葬したと伝える。親王の御首を洗い清めた井戸を「首洗 (くびあらい)井戸」と称し神社付近にある。井戸の傍の大杉は伐採しても不思議に新芽を生じたが、昭和35年頃焼損した。御首を一時隠し奉った所を「御墓」といい老松があったが、これも明治末年落雷に焼損した。四抗とは御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛という。社殿は当初西北に向いていたが東海道の往来に支障ありとて現在の東南向きに変えたという。
神奈川県神社庁>王子神社 より

太平記では首を捨てています。何故、首を藪に捨てたのか
太平記巻十三 兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
左馬頭(足利)直義は山の内を通り過ぎる時、淵辺伊賀守を近く呼んで、「御方が無勢の為め、一旦鎌倉を引退いたが、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を集めて、頓(やが)て又鎌倉へ押し寄せたならば、相模次郎時行を滅すには手間がいらぬ。それよりも当家にとつて、常に邪魔となるのは兵部卿親王(護良親王)である。此方を死罪といふ天皇の御許しはないが、此次(このつひで)にお殺し申さうと思う。お前は急いで薬師堂谷へ馳せ帰り、宮を刺殺し申せ。」と下知したので、淵辺は畏まって「承(うけたまはり)候。」と云って、山の内より主従七騎で引返し、宮の坐(ましま)ける篭(ろう)の御所へ參たれば、宮はいつとなく闇の夜のような土篭(つちろう)の中で、朝になったのも御存知なく猶灯を挑(かかげ)て御経を読んでいられる宮に、淵辺がお迎へに参つたと申上げて、御輿を庭へ置いたのを御覧になつて、「お前は私を殺そうとする使であろう、わかっている。」と仰せになり、淵辺の太刀を奪おうと走り懸(かか)られたのを、淵辺は持つていた太刀を取り直し、御膝の所をしたゝかに打ち奉つた。宮は半年程の間、牢の中に屈んでいたので、御足は思うように立てず、御心は八十梟(やたけ・やけくそ)に思召けれ共、仰向けに打ち倒されて、起き上がろうとせられし処を、淵辺が御胸の上に乗り懸り、腰の刀を抜いて御頸(くび)を斬ろうとしたら、宮は御頸を縮めて刀の尖をしつかりとお呀(くは)へになられた。淵辺は剛の者なので、刀を奪はれまいと引合つていた所、刀の鋒(きつさき)が一寸余りも折れて失ってしまった(これでは刺せない)。淵辺は其刀を投げ捨てゝ脇差の刀を抜き、先づ御胸元の辺を二回刺した。刺されて宮の少しお弱ったように見えた所を、御髪を掴んで引上げ、直ぐ御首をかき落した。牢の前に走り出て、明るい所で御首を見ると、噬(くい)切らた刀の鋒(きつさき)がまだ御 口の中に残つており、御眼は生きている人のようであつた。淵辺はこれをみて「さる事あり。加様(かよう)な首は主には見せられぬ」と云って側の薮の中へ投げ捨てゝ帰つた。

淵辺が「さる事あり」とは「眉間尺の故事」ですね、知っていたのです。後半でその故事が書かれています。

斯る処に、父干将が古への知音なりける甑山人来て、眉間尺に向て云けるは、「我れ汝が父干将と交りを結ぶ事年久かりき。然れば、其朋友の恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若父の仇を報ぜんとならば、持所の剣の鋒を三寸嚼切て口の中に含で可死。我汝が頭を取て楚王に献ぜば、楚王悦で必汝が頭を見給はん時、口に含める剣のさきを楚王に吹懸て、共可死。」と云ければ・・・・・・

淵辺加様の前蹤を思ければ、兵部卿親王の刀の鋒を喫切らせ給て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬頭に近付奉らじと、其御頚をば薮の傍に棄けるとなり。

「眉間尺の故事」ではさすが頸が口に含んだ剣を吹懸けるのは無理です。本人にそう云っただけで、物語では持参した人がその剣で頸を刎ね、本人も 自分の頸を刎ねていますね。

同じく護良親王を祀った鎌倉宮もご参考に。

東海道からの入口

神社への道 神社の前の道

鳥居

参道

手水舎

拝殿

やや古い形の岡崎型狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和10年(1935)7月12日建立)

本殿

稲荷社 不明
不明 不明

境内

忠魂碑

歌碑。「丈夫に捧ぐ幾歳を、異國の四海に越せし英霊 王子の杜に今日鎮りけり」

「御墓」というの老松の跡。「遺跡護良親王御しるしお鎮の松」

記念事業手水舎奉納。拡大写真はこちら。

首洗い井戸

伝説その1
柏尾の里は古来より北から南へと鎌倉道が通じる地にして皇統第六十九代後醍醐天皇の皇子護良親王を偲ぶ伝説を秘めた里なり。元弘の昔天皇の理想の意に従い幾多の苦難を克服され武家政治を退け天皇新政の御代建武中興の偉業を成就され其の實りを念願せし皇子であらせられたが再び武家の陰謀にて建武元年十月京の都より鎌倉薬師ヶ谷理智光寺に送られ幽閉の身と成れり。先に中納言藤原藤房卿は親王の有事を予期し諫言を残し朝廷を失踪し直ちに吉野郡十津川郷に駆り親王に供奉せる数名の同族武将と共変装して柏尾に潜入し親王を奪還に智謀を廻らし厳に鎌倉の動向を窺いしもついに建武二年七月廿二 日夜足利高氏の下僕義博の刃に弑殺の悲運に至る。郷士達は御首だけは渡すまじと格闘自刃の末に奪守し柏尾の里まで捧げ来りて清水で淨め四本の杭を打ち祀檀と成し平伏し供養す時に側女三位局南の方は深い悲しみの内に珠念され藤房卿の計にて東山道を京に向われたと聞く首洗い井戸と併せ四っ杭谷戸と往古より傅へ聞く地なり
昭和六十二年三月十五 日 建武中興六百五拾年記念事業委員会

伝説その2
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子(おうじ)で、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の倒幕に活躍した護良親王(もりながしんのう)は、幕府滅亡後、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、鎌倉に幽閉(ゆうへい)されました。その後、足利直義(あしかがただよし)の家臣によって殺害され、さらし首になったといいます。護良に仕えていた侍女(じじょ)がその首を夜中に盗み取り、この地の豪族、斎藤氏に救いを求め、逃れてきました。そして、その首を井戸で洗って清め、近くの王子神社に葬ったとされています。
戸塚区>歴史>首洗い井戸  より