鎌倉宮

鎌倉市二階堂154 (平成24年3月1日)

東経139度34分12.06秒、北緯35度19分22.66秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
鶴岡八幡宮前の県道204を東へ進みますとY字交差点「岐れ路」を左へ行きますと鳥居が見えてきます。この交差点を見失なうと迷います。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社です。土牢、宝物殿の見学は有料です。

御祭神 護良親王
御由緒
鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘元年(1331)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となります。中略
足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢(つちろう)に幽閉されます。中略
御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。
鎌倉宮公式サイト>鎌倉宮について  より抜粋

鎌倉宮
後醍醐天皇の皇子である護良親王を神祭とする神社です。
護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。
境内由緒書き より

管理人の一言。
太平記の兵部卿宮薨御事付干将莫耶事のくだりを読み返すと親王が囚われていたのは「薬師堂」となっております。漢文調で読みづらいのですが、宮の殺される様子が生々しく書かれています。

一の鳥居と社号標

二の鳥居

手水舎

拝殿

獅子頭守

本殿


土牢
村上義光公木像

御朱印