川崎市川崎区大師町4-48 (平成22年1月23日)
東経139度43分57.72秒、北緯35度31分49.75秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
今回は神社からは外れるのですが、狛犬が居ましたので紹介致します。
団体旅行で川崎大師に行ったのですが時間が余りすぎてしまい、暇つぶしに狛犬探しをしてしまいました。多少は居ると思ってはいたのですが、想定以上に生息していまして、稲荷だけでなく弘法大師の供養塔や、まり塚碑にも居ました。
金剛山 金乗院 平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)
平間寺は神奈川県川崎市にある寺院である。川崎大師の通称で知られ、真言宗智山派の大本山である。山号は金剛山。院号は金乗院。高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東三本山のひとつである。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらま
かねのり)を開基とする。2008年(平成20年)時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗(ふじた
りゅうじょう)が務める。
1813年(文化10年)に徳川幕府第11代将軍、家斉が厄除に訪れた事から厄除け大師として広まる。 毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなる。2006年初詣客は272万人となり、全国3位、神奈川県1位を記録した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、
ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、
わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、
日夜厄除けの祈願をつづけていました。 ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、
海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。
兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。
それは、大師の尊いお像でした。
兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、
大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、
今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。
法灯をかかげて、悠久ここに880余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる 帰依をあつめています。
平間寺公式サイトより。
管理人の一言。
明治以前の神社は大半このようにお寺の境内にあり、僧が管理していた筈です。明治の廃仏毀釈で多くが廃寺となった時代を、どのようににして生き残ったのでしょうか。因みに大師駅前の若宮八幡宮は、平間寺の鎮守社であったが、明治の神仏分離の際に平間寺から独立し、当時の平間寺38世貫主、佐伯隆基の親族が宮司となったそうです。しかし、現在どちらの公式サイトにも分離の際の記述はありません。
福徳稲荷(ふくとくいなり) 御祭神 倉稲魂神
この稲荷は川崎大師のホームページでは福徳稲荷堂となっています。川崎大師内の大本堂の直ぐ左側が中書院で、その左が福徳稲荷です。
空襲で殆んどのお堂が焼けたそうですが、その難から逃れたのがこのお堂だそうです。
福徳稲荷入り口
鳥居と神額
狐さん
(昭和51年(1976)2月二之午)
拝殿
まり塚碑
狛犬
弘法大師の供養塔
供養塔入り口
玉垣親柱の狛犬。拡大写真はこちら。
空中に浮かんでいるようで、やや不気味。珍しいと思います。