仲多度郡琴平町973 (平成21年3月31日)
東経133度49分15.80秒、北緯34度10分56.93秒に鎮座。
象頭山松尾寺入り口。隣の金刀比羅宮と違い参拝の人は少ないようです。
江戸時代に作られ、皆さんも一度は耳にしたことがある筈の、ご存知、「金毘羅船」。
こんぴら船々追い手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅ
まわれば四国は讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞずさん)金毘羅大権現
一度まわれば・・・・・・
と限りなく続く、あの歌のことです。全文はこちら。
歌に登場する「象頭山金毘羅大権現」をお祀りしているのが、ここ松尾寺です。金毘羅大権現は明治政府によって禁じられ、琴平神社御祭神は大物主神とされたのです。
神仏分離以前の金刀比羅宮は「金光院松尾寺」。金毘羅さんの前でも祝詞では無く、僧侶が読経をしていた筈です。
左手金堂が現在の旭社。右上の象頭山御本社には金毘羅大権現の御本尊、不動明王と毘沙門天が祀られていたのですが、廃仏希釈を免れる為、岡山市の西大寺観音院へ逃れ、牛玉所殿に祀られています。
当寺御祈祷所の金毘羅大権現は、本来は讃岐の象頭山に金毘羅大権現のご本体として安置されていたものである。奈良朝時代に広まった神仏混淆(しんぶつこんこう)の思想は、平安朝時代に入り弘法大師空海と伝教大師最澄の、”神仏は本来同一のものである”という本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって確固たるものとなり、鎌倉時代に最盛期を迎えた。
以来、寺院の中に鎮守として神社を、神社の中に別当寺を設けるという様式が生まれ、この思想と風習は徳川時代末期まで続いた。
ところが、明治維新のころ”神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が起こり、仏教は迫害された。
讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。
その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。
西大寺観音院公式サイトより。
松尾寺参道
松尾寺境内
祭神厳魂彦命は当山別当職金剛坊宥盛天下麻の如く乱れた天正の世、一身を神明に捧げて国家の安寧又当宮の隆昌整備に努め広く世をおさめ死して尚当山の守護となるを誓い慶長十八年正月六日忽然として没す。偉大なる徳沢その行状大いに天狗信仰と結ばる。
奥社(厳魂神社)由緒書より。
現在奥社に祀られている、金剛坊宥盛。この人が第四代別当と云うのですから、松尾寺の創建はその少し前、室町時代末の頃と思われます。金毘羅さん発展の基礎を創った宥盛は、死後神格化されて 金剛坊尊師と崇められ、本社や観音堂に並ぶ、後堂に祀られ、松尾寺金光院の僧たちに拝まれてきました。明治の世になり、坊主を崇めていては、具合が悪かったのでしょうか。厳魂彦命と名前を変え、本殿から遠く離れた奥社に、追いやられたと思われます。
明治の仕掛け人は「琴陸宥常」(ことおかひろつね)。四代別当が宥盛(ゆうぜい)。金毘羅大権現を救ったのが宥明(ゆうめい)。皆「宥」の字が付いています。宥常もゆうじょうとか音読みし僧侶であった筈です。「今日の金刀比羅宮の礎を築いた宮司」であると、銅像前の説明にありますが、きっとその通りなのでしょう。御祭神は替えられても、多くの観光客はそれと気づかず、参拝できる「金刀比羅宮」と云う神社名を考案した方と思われます。
松尾寺普門院の宥暁が寺を守るべく、金光院の別荘地であったこの地に再建された松尾寺も、ひっそりとして観光客が訪れることはないでしょう。満開の桜を見ながら、明治という時代に思いを馳せるのに、相応しい場所です。
東京世田谷の三宿神社が毘沙門天を大物主命に書き換えられています。届けを出した、その目の前で書き換えられた経緯がはっきり分かる珍しい例かも知れません。
十一面観音立像 木造 像高144.0cm 平安時代 重文
かつての金光院観音堂の本尊。当初、聖観音と伝えられたが、頭上に仏頭のあった痕跡がのこり、十一面観音とわかった。一木造りで、台座・持物・光背は失われ、髪・まゆ・目などに墨色、唇に朱色がのこる。面相は端正。(金刀比羅宮宝物館蔵)
日本人はバーミヤンの石仏を破壊したタリバーンを非難出来ません。明治の初め壊され、又は燃やされた仏像・絵画・経巻等は膨大だったと思います。
明治42年(1909) 象頭山松尾寺は建物・宝物の所有権と返還を求めて金刀比羅宮を相手に訴訟を起こしたが、明治43年(1910) 7月7日高松地方裁判所は原告の請求を棄却する判決を下した。