吉田神社

常陸大宮市下伊勢畑 (平成22年6月12日)

東経140度18分5秒、北緯36度33分8.6秒に鎮座。

この神社は、那珂川の南側に広がる、御前山県立自然公園。水戸徳川家によって伐採が禁じられていた為、この一帯には豊かな自然が残っているようです。その中の、御前山青少年旅行村の北東400m程の辺り、山裾に鎮座しております。中門がある本殿等、由緒ある神社のようです。初めは、若宮八幡と称し生活改善センター敷地にあったが、元禄9年(1696)日本武尊、誉田別尊を合祀して吉田神社と改称し、宝永5年(1708)現在地に遷座したということです。 

御前山そのものは神社の南東2km程の所にある標高186mの小さな山ですが、名前の由来が、何と弓削道鏡に由来すると言う。足利尊氏や平将門と並び、日本三大悪人の一人「弓削道鏡」。失脚後、下野国に左遷され、やがて御前山に孝謙天皇とともに住んだことから土地の名を皇都、山の名を御前山、傍をながれる川を皇都川と呼ぶようになった、と云う。

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5 月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である施基皇子の子とする異説もある。祈祷の力をもって王家に取り入って権力を握り、政治に容喙したことから、よく帝政ロシア末期の怪僧グリゴリー・ラスプーチンと対比される。
神護景雲4年(770)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。ウィキペディアより。

称徳=孝謙天皇の死後左遷された道鏡が孝謙天皇とともに住んだ・・・。あり得ない気もしますが、何と言っても伝説ですから、良しとしましょう。道鏡が左遷された、と云われる場所はこちら。

参道入口

参道

拝殿

本殿


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不明

鎮守の杜