八幡宮

下野市薬師寺(平成20年7月15日)

東経139度52分53.29秒、北緯36度23分52.15秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、310号線を二宮町方面に向かい、道路から左に入った薬師寺地区にあります。平成6年の狛犬が居りました。拝殿、本殿が県指定文化財です。境内のケヤキは天然記念物です。ちょっと見難いのですが、本殿の前に陶製の狛犬が居りました。参道入口に別宮、雷電神社があります。

薬師寺郷八幡宮由緒略記
御祭神:誉田別命
配神 :息長帯姫命・玉依姫命
「由緒沿革」
人皇五十六代清和天皇の御勅定により東北守護の大神として、京都岩清水八幡宮の御分霊を下野仮夷國大内山郷磯之坂上旭ケ丘に、貞観十七己末歳(875)九月鎮座した。この時より関東北の総社となる。時に小島物部連邦詩朝臣大神主を拝し神主一名、禰宜五名と社家十一、下社家二十三、神戸五十五戸、神領五五○町歩を賜る。
天喜四歳乙申八月、源頼義奥賊追討の勅を拝し出向の砌り当社に、参宮祈願をなし進発したが、源公の後続軍と賊軍が当社郷において合戦し、その兵災により御社殿・御神楽殿・御神門・御酒殿・御餞殿をはじめ神主、社家等も全く灰燼に帰した。
源頼義、義家公等奥賊安倍一族を平定し帰路奉賛、特に鉄弓三張、鏑矢六本を奉納したという。後伊那備前守支配領内となるに及び、神社収領の手数を省く意味で五五○町歩余の神領を上地し直接石高を以って奉納と決まり社の収入はここに大減するに至った。その後領主の変わる毎に石高は減少し、神社経営は極度に窮迫した。当時薬師寺郷内拾余の寺院も閉鎖、院領も没収せられ二、三の寺院を残すのみの大変動があった。その後佐竹右京太夫の支配領となるに及び寛文二年壬寅歳御本社、御石間再建、翌歳御拝殿、御玉垣の修理奉納があって漸く旧御社殿形態の幾分かを備うるに至った。・・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。・・・・・南河内町教育委員会の説明はこちら。

由緒書に登場する薬師寺とは、東大寺、及び観世音寺と共に、日本国内の僧侶を統制する国立三戒壇の一つに数えられ、東国の僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授け、中央戒壇(東大寺戒壇院)と西戒壇(観世音寺戒壇院)に対して東戒壇とも呼ばれ、一時期は道鏡が造寺別当(造寺司の長官)として中央から左遷されてくる等、繁栄を極めた大寺院であったようです。戦前は極悪人だった弓削道鏡も僧籍を剥奪されることなく、このような大寺院の別当として晩年を過ごしたところを見ると、銅鏡事件は後の創作かも知れません。因みに下野薬師寺跡はここから西へ300m程です。その後、薬師寺は14世紀南北朝時代に、足利尊氏が戦死者を弔う為に、全国に安国寺の建立を発願し、下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれています。しかしながら戦国時代、、下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと、『薬師寺縁起』が伝えているようです。安国寺薬師寺跡と書かれて場所はこの神社の西100m程です。

神社入り口と参道

拝殿

平成生まれの鈴昭和

(平成6年(1994)建立)

寛文年間の特徴を留めているようです。

本殿

僅かに見える、陶製の狛犬。

祖霊社 久々能知神社
稲荷大明神 金精様
五條天満宮 千勝神社
境内の石仏 神楽殿

市指定天然記念物の欅