福山八幡宮東御宮

 嘗て東御宮は延広(のぶひろ)八幡宮と呼ばれ、西御宮・野上八幡宮とは別法人として祀られていましたが、1969年に法人格を合併し「福山八幡宮」となりました。

 東御宮(延広八幡宮)の由緒
 嘗ては惣堂八幡宮と呼ばれ福山城建設地である常興寺山の麓にありましたが、福山城築城のとき職人たちにより城下の南の神島町下市(現在の延広町)に祀られたとされます。寛永18年(1641)に神島町が火事で焼けたため、神島町と共に城下南東(現在の住吉町)に移されたといわれます。なお、現在の天満屋南側の通りが(神社が存在しないにもかかわらず)「宮通り」と呼ばれるのは、この名残といわれています。
 寛文2年(1662)、3代藩主・水野勝貞公の死去により発生したお家騒動のため、惣堂は騒動につながるとして「延広八幡宮」と改称されました。4代藩主・水野勝種公が天和3年(1683)に城下南西の野上八幡宮と共に吉津川北岸に移転させ一般に「東の宮」と呼ばれるようになりました。

東御宮入口 東御宮社号標
東御宮参道の様子 東御宮参道途中の両部鳥居
東御宮参道石段脇に居る天保7年(1836)生まれの狛犬
吽には角があり、ふさふさとした縦ロールの鬣をしています。小顔で身体に瘤があり、姿勢正しく斜め前方を睨み、尾は先が分かれて少し下がっています。前足には二本のアンクレットのような細い紐状の物が彫られています。
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(天保7年(1836)建立)
東御宮随神門
東御宮随神門内に居る木造神門狛犬
筋肉質な上半身を持ち、玉顔を填め込んだ瞳で(吽は取れています)、口蓋が口髭のように見えます。吽には角が付き、阿は垂れ耳、吽は立ち耳、鬣は太いバナナの房が二段にぶら下がったような感じで肩まで掛かっています。
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東御宮拝殿
東御宮本殿、側面前方と後方から

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