赤城神社

伊勢崎市宮前町1582 (平成23年10月27日)

東経139度12分26.18秒、北緯36度19分17.13秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、68号線(桐生伊勢崎線)を伊勢崎方面に向かい、天増寺橋手前左側です。由緒によると、この神社は1,500年近い歴史があるということになります。昭和15年(1940)の狛犬が胸を張っていました。たくさんの末社が社殿を囲んでいます。水盤は、文政10年(1827)です。駒留石は、正徳元年(1711)でした。境内に古碑殿があり、県指定文化財の宝塔と石幢が保管されています。

当殖木宮の創建は古く安閑天皇の御代(535年頃)に勅使佐位に至り殖木縣に宮殿を造立し給うと縁起書に記されている。按ずるに当時佐位一帯を支配していた檜前部君一族により、氏神赤城社として建立されたものであろう。殖木縣は東山道佐位駅として古代の交通の要衝として、また、まつりごとの中心地であった。七世紀末頃建立された上植木廃寺も一族の氏寺であったと思われる。元慶(880年)の頃佐位郡の大社として従四位上郡玉明神の神位を贈位せられた。檜前部の人々の末裔と思われる秦藤原平清原氏によって社は護られて来たが、数世紀に亘る世の変遷とともに三浦・上杉・長尾氏らの修復再建を重ねて来た。特に天正十五年(1587年)上杉勢の兵火に罹り社殿悉く灰燼と帰しその時宣命状も焼失せり。その後慶長十三年(1608年)伊勢崎藩主稲垣公により再建され三夜沢赤城神社より井下氏を廟令として招聘、正徳年(1711年)九月正一位の神位を授けられその宣旨は現存するところである。昭和十五年八月殖蓮村長以下神社総代一同当社の昇格を申請せしも、時恰も日中戦争に続いて太平洋戦争に突入。終戦を迎え、そのままになりたりしを、茲に郷土の繁栄を願い石に刻み永くその栄誉を後世に伝えんとす。

殖木(えき)宮赤城神社御由緒
御祭神 大己貴命(大国主命)・磐筒男命
縁起書ニ曰ク安閑天皇ノ御宇、或ル夜、天皇ニ二柱神見エ奉リ奏シテ曰ク、吾レ是ノ毛ノ上ツ國ノ磐筒男・磐筒女ノ大神也、天ニ在リテ相生ノ神也。今國ニ魂ヲ分チテ毛ノ上ツ國ニ鎮座シテ、男神ハ赤城山に座シ、女神ハ児持山に座ス。是ノ如ク鎮座スルハ他國ヨリハ吾國、他人ヨリハ吾人ニシテハ動ジズ絶エズ、君ヲ守リ鎮メ、神徳ニ明ラケク、天下ノ陰陽ノ道ヲ守リ、万代ニ易ラズ、殊ニ吾ガ鎮座スル毛ノ上ツ國ハ五穀ニ桑多ク在リ養蚕ニ美シ國ナリ。天皇必ズ吾ガ二柱神ヲ祭リテ開國ノ地ナリ。天皇則チ勅使ヲ毛ノ上ツ國ニ遣シ二柱大神ヲ祭ル。女神ヲ児持山ニ祭リ、男神ヲ赤城山に祭ル。大道ヲ以テ内殿トシ、三夜沢ヲ以テ前殿ト為ス。勅使、佐位ノ殖木ニ縣ノ地ニ至リ宮殿ヲ造立シテ赤城山ノ磐筒男命ノミヲ祭ル是レ陰陽ノ大道也。豊御食炊姫(推古)天皇ノ御宇ニ殖木ノ社記ヲ永ク末代ニ之ヲ伝フ。伝ニ曰ク鎮守府将軍源ノ頼信公、上野守ト為リ児持山及ビ赤城山ニ三所ノ大明神ヲ造殿ス。殖木ノ宮ハ殖木氏之ヲ造立近地七郷(佐位郡)ノ総鎮守タリ。長元六癸酉年春、源頼信ノ臣渡部源次、殖木ノ柵御社ヲ修復、流鏑馬ヲ奉納シ秦神慮ヲ慰ム。是ノ時神礎ヲ流鏑馬ノ石ト定ム。康平年中鎌倉権五郎影政遠征功アリテ修理ヲ加フ。其ノ後、壘主上木平九郎代々祭行ス。久寿、平治ノ比赤石城主三浦之介義明社殿を再建、日向原岸城大明神ト奉称ス。建保年中三浦之介義澄武運祈願ノ折之ヲ修理ス。殖木三所ノ明神倶ニ祠ル。
弘長四年鎌倉将軍宗尊親王ノ時渕名ノ荘園領主藤原是員諸願成就ノ為仝年二月境内ニ観音堂ヲ建立。本地佛千手観世音菩薩、三月十一面観音ヲ祀り、流鏑馬ノ神事ヲ催行、元弘、建武ノ乱ニ殖木氏戦陣ニ斃レ後絶エル。観応二年十一月、貞治五年二月秦氏世上ノ安穏ヲ祈願。多宝塔ヲ建立、其ノ年十一月上杉民部大夫、社殿ヲ再建近郷十九ヶ村ノ惣鎮守ト定メ、毎年九月十八、十九日流鏑馬の神事ヲ行フ。大永年中赤石左衛門尉社殿ヲ修復。元亀年中由良家ノ臣林伊賀守之ヲ修理。然ルニ天正十五年上杉勢の兵火ニ悉ク焼失。慶長十三年伊勢崎藩主稲垣平右ェ門之ヲ再建。三夜沢ヨリ、井下ヲ招キ廟令ト為シ、本宮祭神五体左相殿祭神五体、右相殿祭神五体三祠ヲ含合、殖木三所大明神ヲ奉称。元禄年中、江戸長尾四郎左ェ門、赤城山木城大明神ノ神号額ヲ奉納。正徳元年、正一位ノ神極位ヲ授ケラレ、赤城大明神ト再号。其ノ後、上木長尾氏等ノ修復ヲ重ネテ、明治六年村社赤城神社トナル。明治四十一年下植木村内無格社ヲ境内社トシテ祭祠ス。平成四年七月修復工事ヲ施行ス。

宮殿の造立にあたって、山の一番美しく見える処が撰ばれた。水の流れて来る方向に神の存在を信じ、真夏の水田の水の熱さに生命の根源を肌で感じ取っていた。水稲耕作が入って来て、すでに九百年近く経っていた。経済力が増大し、政権が誕生して二百年が経過していた。まさに瑞穂の国の所以である。やしろは赤木ノ社と名づけられた。
安閑天皇は継体天皇の第一皇子で、弟皇子が宣化天皇。第三皇子が欽明天皇である。百済の聖明王が日本の朝廷に仏像や経論を送ってきて佛教の信仰を勧めたのは欽明天皇十三年壬申の年(552年)ともいう。これは仏教公伝の年であって、それよりも、ずっと以前から仏教徒は渡来人として渡ってきているはずである。
安閑天皇を(勾大兄(まがりのおおえ)尊)宣化天皇を(桧隈高田(ひのくまたかだ)尊)と申された。安閑、宣化天皇の部の民桧前部(ひのくまべ)一族は大陸からの新しい文化を持った人達で、特に養蚕、織物に指導的な立場で佐位郡一帯に住し先住の人達と融合同化していった。正倉院御物用の袋の布に、佐位郡佐位郷桧前部黒麻呂の墨書銘がある。天平感宝元年(749年)聖武天皇から孝謙天皇の御代になった年で、このことは(続日本紀)称徳天皇(孝謙重祚)の項にしるされている。(庸布一段)庸(糸や布で納める税)として貢進したもの。聖徳太子はこれよりさき603年に冠位十二階を定め、604年に憲法十七条を作成し、607年に改めて正式な遣隋使が送られた。その後838年年(承和五年)まで、遣唐使が十三回も派遣された。目的は国際情報の入手と、文化の導入であった。
保元、平治(1156,1159)の乱をきっかけに公家政権から鎌倉武家政権へと移行した。従来の価値基準が通用しなくなった。新しい鎌倉仏教は古代仏教の救いの条件を否定し、ひたすら、称名念仏を唱えることにより衆生は、すべて極楽に往生できると救いの対象を衆生に及ぼした。
武家政権も徳川時代を最後に明治の維新の維新を迎え政治的、社会的混乱を経て、明治新政府が誕生し新しい心のよりどころが出現した。日清、日露の役により国威を宣揚、世界の列強に伍した。明治の価値基準の結果であった。
昭和二十年八月十五日第二次世界大戦の終焉とともに再び勝ち基準が逆転し、主権在民いわゆる、民主主義国家として、高度文化国家の建設を標榜して今日に及ぶ。

境内由緒書はこちら。

「女神ハ児持山に座ス」とありますが、現在の子持山でしょうか。麓に子持神社が鎮座しております。

神社入口の鳥居と社号標

境内。「佐位大社 殖木鎮座 従四位上郡玉明神」の社号標。

参道中央の「駒留石」。

参道の鈴昭和

手水鉢

拝殿

「正徳元年(1711)辛卯歳九月十日宗源宣旨 上野國 佐位郡殖木村 正一位 赤城大明神」の神額

「赤城神社」の神額

本殿

社殿全体


立ち並ぶ末社


石造美術群