石都々古和気神社

石川郡石川町石川町下泉269 (平成16年7月25日)

東経140度27分15.34秒、北緯37度8分30.8秒に鎮座。

この神社は、石川町の中心部、石川町役場の北西150m程の辺り、通称八幡山と言われる山頂に鎮座しております。参道入口は役場のすぐ南隣にあり、そこから山道を登ること十分程で境内となります。

当社は石川町の中央の通称八幡山に鎮座し、境内及び神社森は三芦城の跡地として県及び町の史跡に指定されており、約一万年以上前から山岳信仰の場として山そのもの、又参道両側に点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、古代の人々に崇敬されていたと思われるが、それらを裏付ける文献は残されていない。当社が始めて文献上にみえるのは延喜式年間(西暦901年)に全国の神社を調査した時である。その時に確認された神社を延喜式内社と呼び、当社もその一社に数えられている。
石都々古和気神社公式サイトより。

又この神社は陸奥国一之宮を称していますが、同じ福島県東白川郡棚倉町の馬場都都古別神社八槻都都古別神社が、宮城県塩竈市の鹽竈神社が陸奥国一之宮を称しています。

石川氏と三芦城
この山を通称八幡山と称し、中世武家の名門石川氏の居城である。築城は石川氏の祖、源有光による平安時代の康平年間と伝えられており、二四代昭光まで約五百年間居城したところである。
阿武隈川の支流今出川が東から南を巡り、巨岩が重なる丘陵にあり、自然の要害となっている。中心部である本城には現在、石都々古和気神社が祀られている。この神社は応永三十年(1423)に城主石川持光が鰐口を寄進した八幡宮とみられる。神社の北側平場が主郭で東西80m、南北50mあり、西側に土塁が南北に走っている。主郭の西側が二ノ郭でその西に幅19m、長さ40mの堀切があり、これを超すと西館となり、城主の隠居所と伝えられている。本城と西館は多数の郭と空堀がめぐらされている。
城跡は、南西の愛宕山と石川有光が勧請したという塩釜神社のある宮城、さらに鹿ノ坂方面に広がり、中世国人領主の城館の原型を残す貴重な史跡である。
初代石川有光は永承六年(1052)父頼遠と共に源頼義、義家に従って、奥羽の豪族安倍氏追討に加わり、その功により奥州仙道の地を賜り、この地に移り住み、初め藤田城を築き、その後三芦城を築いたという。有光の子孫は石川荘の各村を開拓し、鎌倉時代には石川郡一円と西白河郡、東白河郡の一部まで一族が勢力を拡げたが、室町・戦国時代は四隣する豪族と抗争し、天正十八年(1590)豊臣秀吉に領地を没収され、三芦城は廃城となった。
その後、石川氏は甥伊達政宗の配下となって伊具郡角田城を与えられ二万一千石を領する伊達家一門筆頭として明治にいたった。
石川町教育委員会。原文はこちら。

御祭神 味耜高彦根命・大国主命・誉田別命

この神社の東400m程の辺りに近津神社があります。由緒書に「康平五年(1062)有光公は八幡山に三蘆城を築いた。この山頂に「味鋤高彦根命」を祀る社があったが築城中同社を假に高田五里石の千勝大明神の地に遷座した。治暦二年(1066)九月これを旧社に還遷し祭神味鋤高彦根命を合祀して近津神社と改称した・・・・」とあり、源有光の築城以前に「味鋤高彦根命」を祀る社があったようです。当時の名称は不明ですが、江戸時代には「八幡宮」と呼ばれていたと言われています。源氏姓である徳川時代には源氏の氏神である八幡大菩薩でよかったのでしょうが、徳川幕府の終焉と共に、喜式神名帳記載の「石都都古和気神社」と改称したと思われます。

参道入口

参道入口の狛犬。拡大写真はこちら。

我が夫はこの石都都古分神社の狛さんが、和平さんの作品の中では一番好きらしいですが、いかんせん背景がいけませんよね〜。こんな所に置かないで、もっと山の中腹か、社殿の前にでも移動させてくれればいいのに〜、と私は思います。

(石工・小林和平 昭和5(1930)年1月30日建立)

参道

拝殿

本殿

境内社

灯籠上の龍


川を挟んで対岸にある御仮屋の狛犬。

こちらは普通の狛犬の形態、所謂蹲踞の姿勢をとっています。拡大写真はこちら。

(昭和14(1939)年1月建立)

何故か小林和平、大竹俊吉と連名になっています。偶然、我々が車を止めた場所に大竹石材店と書いてありました。どうも大竹石材店の駐車場に入れてしまったようです。