久留米市瀬下町265(平成23年8月5日)
東経130度29分54.1秒、北緯33度19分1.49秒に鎮座。
この神社は久留米駅の西約500m、筑後川東岸に鎮座している水天宮本宮です。
この日は夏大祭の初日で、周辺では交通整理が行われ、参道には露天が並び、夜の花火大会を楽しみにする多くの人で混み合っていました。
石垣が組まれ大木が茂る入口には社号標・鳥居が立ち、ブロンズ狛犬が参拝者達を見守っています。参道を行くと右手に、明治維新に際し尊皇倒幕の思想家で子弟教育も行った水天宮宮司・真木和泉守保臣命を祀った真木神社や、関連する山梔窩、真木和泉守銅像などが見られます。
神橋を渡り、唐破風付きの神門を潜ると境内で、正面に唐破風付き入母屋造りの拝殿、神明造りの本殿が建立されています。境内右には社務所が配され、社殿周囲には千代松神社、秋葉神社、水神社が祀られています。又境内左には西参道から筑後川に下りる出口が作られています。
この社には入口にブロンズ狛犬が居り、その他に神門前、拝殿前、水神社、西参道鳥居脇にそれぞれタイプの異なった石像狛犬がいますが、特に水神社にいるはじめタイプの肥前狛犬は、感動ものの出来映えです。
御祭神:天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼
祭礼日:1月1日・歳旦祭、1月5日・初水天宮祭、2月立春・神水祈祷、2月11日・紀元節祭、4月中旬・千代松明神墓前祭、5月3〜7日・春大祭、
6月30日・夏越大祓、7月21日の前後の土、日、祭日・紫灘旗高校弓道大会、7月21日・真木神社例祭、7月21日
〜8月5日・船太鼓行事、8月5・6・7日・夏大祭、8月5日・筑後川花火大会、9月5日・講社大祭、11月15日・七五三祭、10月21日・天王山十七烈士
招魂祭、12月23日・天長祭、12月23日・新穀感謝祭、12月31日・年越大祓、12月31日・除夜祭、月次祭・毎月・1日・5日・15日
境内社:千代松神社、秋葉神社、水神社、真木神社
由緒:由来…寿永4年(1185)、3月24日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使局伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。
伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験のあらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。
その頃中納言 平 知盛卿の孫(従四位少将 平 知時の四男 右忠)肥後より千代女を訪ね来てこれを養いその後嗣とした。千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコーポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。
当宮は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或いは病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされた。
かくの如く御霊験あらたかなるを以て明治元年十月三日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。
鎮座…筑後川のほとり鷺野ヶ原に建久初年(1190)創建せられ、その後兵禍を避けて諸所に移し、遷御の遺跡と伝えられる所は幾多あり。慶長年間に至り久留米市新町1丁目に遷り、更に慶安3年(1650)9月久留米藩第2代藩主有馬忠頼公は社地と社殿を寄進し現在のところに遷し奉った。
爾来御神威弥増に輝かせ給い、第9代藩主有馬頼徳公殊に尊崇せられ、文政元年11月1日江戸三田の藩邸に御分霊を勧請された。その後明治4年現在の中央区日本橋に御遷座されこれが現在の東京水天宮である。
このほか、国内・ハワイ等各地に鎮座する水天宮はすべて当社を本宮とする御分霊社である。
(「水天宮公式サイト」より)
天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀るが、これとは異なる祭神の水天宮もある。
仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。
そもそもの「水天」は仏教に取り入れられる前は、もともとは古代のイラン・インドのヴァルナという最高神であり、バラモン教の聖典「ヴェーダ」の神話にも登場し、ゾロアスター教ではこの神をアフラマズダとして称える。神仏分離以後は、ヴァルナ神は記紀神話でいえば天御中主神にあたると解釈された。
ウィキペディアより
東京中央区の水天宮由緒書に「壇ノ浦で敗れた平家の女官の一人が、入水された安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼の御霊をささやかな祠を建ててお祀りしたのが創めです・・・」とあります。やがて、天皇にして水死された安徳天皇が仏教の水天と習合し「水天宮」と称されるようになったと思われます。平家物語によれば、二位殿に抱かれた安徳天皇は念仏を唱えながら極楽浄土へと旅立たれたようです。明治政府のお気にめさなかったと思われます。御祭神から天御中主神を外しても良さそうな気が致します。
社頭 |
入口にいる昭和50年生まれのブロンズ狛犬 阿吽の位置が反対の、足が長く精悍な体つきの木製の神殿狛犬風な狛犬です。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(昭和50年(1975)5月吉日建立) |
社号標 | 入口近くに立つ大鳥居 |
参道右側に聳えるご神木 | |
参道の様子 |
境内社:真木神社 真木和泉守保臣命をはじめ明治維新に際し国難に殉ぜられた一門及び門下生と、天王山にて真木先生と共に自刃された方々を奉斎しています。 |
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山梔窩 久留米藩改革の際、真木和泉守が久留米藩より水田村(現在の筑後市水田)の弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられそこで付近の子弟の教育を行い、そこは尊皇倒幕の策源地ともなりました。この建物は資料により当時のものをこの地に模して建てたもので、実際の建物はまだ水田に存在しています。 |
明治100年を記念して新たに建てられた真木和泉守保臣命の銅像 |
注連柱と参道 |
神橋 |
神池 |
参道の様子 |
神門前、明治28年生まれの狛犬 阿吽共に垂れ耳で、獅子頭の様な厳つい顔つきはしていますが余り力強い感じもなく、この地域に多い筑後型とは異なった特徴を持った狛犬です。明治も半ばを過ぎ他地域からの影響もあるのでしょうか? 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(明治28年(1895)建立) |
神門 |
境内の様子 |
拝殿前、文化14年生まれの狛犬 こちらは耳は双方垂れていますが筑後型の狛犬です。鬣も尾も彫りが立体的で、張り出した胸板から出ている前足を少しずらしています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(文化14年(1817)丁丑建立) |
拝殿 |
拝殿内の様子 |
本殿 |
境内社:千代松神社 水天宮の創始者按察使局伊勢命が奉斎されています。 |
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境内社:秋葉神社 農耕・文芸の神の阿遲すき高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)が奉斎されています。 |
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境内社:水神社 水徳の神様・彌都波能売神と安産の神様・鵜葺草葺不合命が奉斎されています。 |
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水神社を護る建立年代不明の肥前狛犬 自分の痛いところを撫でればその痛みがとれるという事で「撫で狛犬」とも言われ、人々から篤い崇敬を受けています。肥前狛犬としても前期の物なのでしょうか?小型で阿吽共に歯を食いしばったように口を閉じた状態で座っています。意味不明なのは顔中に描かれた皺のような線で、一体何を表そうとしているのでしょうか?鬣は短く先端で外側にカールしています。尾は一本で有るか無いかの盛り上がりがお尻に張り付いています。私にとっては今回の佐賀の旅で一番印象に残った狛犬です。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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社務所 | 絵馬 |
ご神木・楠木 | |
筑後川(別名千歳川)側の参道入口に立つ鳥居 |
筑後川(別名千歳川)側の参道入口にいる明治21年生まれの狛犬 この狛犬も筑後型ですが、珍しく阿は口中に玉を含み、吽は玉を持っています。筑後型も明治期に入って色々なバリエーションが出てきたようです。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(明治21年(1888)6月吉日建立) |
神社西を流れる筑後川(別名千歳川)の様子 今夜の例祭時に対岸から花火が打ち上げられ、こちら側の河川敷は桟敷席となるようです。 |