金富(きんとみ)八幡宮

築上郡築上町湊392-2(平成22年4月3日)

東経131度4分8.77秒、北緯33度38分50.58秒に鎮座。

 この神社は10号線・小原入口信号南東に鎮座しています。入口右には湊公民館が建ち、社頭には立派な社号標と注連柱が立っています。外部から見ると大きな森の中に社地があるように見えますが、境内は広く明るく、中央や周囲に聳える桜が満開で、とても清々しく綺麗な神社でした。この社の入口には何処にも狛犬が居て、拝殿前の狛犬と合わせて3対の狛犬を見ることが出来ますが、どれも姿が異なり変化が楽しめます。
 妻入りの拝殿も八幡造りの本殿も大きく立派で、その左右には境内社や石碑が点在しています。

 御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、木花開耶姫命
 祭礼日:元旦祭・正月元日、初卯祭・2月初卯日 榊山神事、祈念祭・2月18日、例大祭・3月18日、神幸会大祭・5月17・18日、夏越祭・旧暦6月晦日 おんばらい、新嘗祭・11月23日、除夜祭・12月31日
 境内社:貴船神社、菅原神社他
 由緒:聖武天皇の神亀元年(724)豊前守男人、藤井連毛が天皇の勅を奉じて宇佐の小倉山に神殿造営の命を受けた。この時神託によって築城郡安岐之水戸(赤坂湊=湊)の金富の岡に神幸されることになり、三間の仮殿を造り榊山に滞在されて、斧立の儀を修して再び当社に還行された。
 そのことがあってから宇佐の大神首人が来て、この地に社殿を建立し、八幡を勧請し奉った。これが「日本勧請之最初也」といわれそれ以来宇佐神宮の神殿再興の節は当社に行幸になることが旧例となっている。
 社名は、創祀の頃は矢幡八幡と呼ばれ、次いで湊八幡、絹富八幡と変わり、江戸時代になって金富八幡となり更に、今日では金富神社と称せられるようになった。
(境内案内より)
 「金富八幡宮」は宇佐八幡宮の元宮で、原始八幡神顕現の霊地といわれているが、創建当初は単に「やはた」「やばた」と呼ばれていたと伝えられる。神仏習合が始まる9世紀頃から「八幡」を「はちまん」と読むようになったことから、「やはた」に相当する名称を「矢幡」と書き、「矢幡八幡宮(やはたたちまんぐう)」になったと推定される。「絹富八幡」「金富八幡」へと変遷したのは、備前国各地に散在する国衙領であった「絹富名(きぬとみみょう)」の遺称に由来すると考えられている。明治に入って現社名となり、現在に至る。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

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社頭 社号標
境内入口 社号標
神社の入口にいる明治24年生まれの狛犬
倒立と起立の一対で、倒立の阿は左前脚で玉に乗り、起立の吽は前脚が体から離れていない等、築上町高塚の網敷天満宮の狛犬と良く似ています。最も此方の方が37年ほど長生きですから、同じ石工さんの作品か、此方が網敷天満宮の狛犬のモデルかも知れません。吽の前脚の感じから、龍か麒麟を想像してしまいました。
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(明治24年(1891)11月吉日建立)
境内の様子
拝殿前、大正13年生まれの狛犬
玉乗りで、顔は老成していますが、体型は子犬のようです。阿の牙にお神籤が結ばれていますが、何か意味があるのでしょうか。
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(大正13年(1924)12月建立)
拝殿
本殿
境内社 境内社:貴船神社
突大神、猿田彦大神等 猿田彦大神
庚申、猿田彦大神 猿田彦大神
猿田彦大神 末社
境内社:菅原神社
南参道入口に立つ鳥居
南参道入口にいる大正7年生まれの狛犬
鬣がネックレスのように首に巻き付き、随分胴が長い狛犬です。
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(大正7年(1918)戊午2月祥日建立)