氣比神宮

敦賀市曙町11-68(平成20年11月1日)

東経136度4分39.27秒、北緯35度39分6.49秒に鎮座。

この神社は、敦賀港の南東700m程の辺り、敦賀の中心部に鎮座しております。北陸道総鎮守とされ、8号線に面して国重要文化財の大鳥居が立っています。

北陸道総鎮守
越前國一之宮 氣比神宮
祭神七座
伊奢沙別命(氣比大神)・帶仲津彦命(仲哀天皇)
息長帶姫命(神功皇后)・日本武命・譽田別命(應神天皇)
玉姫命・武内宿禰命
沿革
主祭神氣比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝二年(七〇二)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治二十八年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみでなく日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め九月二日より十五日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。
上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和四十三年畏くも天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和六十二年五月七日昭和の大造営に依る本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。
戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である式内摂社角鹿神社がある。
境内由緒書より。

神社入り口と社号標

氣比の大鳥居旧国宝
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(八一〇)の造営時に東参道口に創建されたが度重なる災害に依り倒壊した為正保二年(一六四五)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治三十四年国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
境内由緒書より。

その他の境内由緒書はこちら。

敦賀市民が親しみを込めて「けいさん」と呼ぶ気比神宮。大宝二年(702)の建立と言われているが、昭和20年(1945)7月12日深夜、米軍による空爆で「大鳥居」を残して灰燼に帰したという。敦賀市民には失礼な言い方かも知れないが、ここ敦賀程度の小さな都市が日本海側の都市として最初の空爆対象になったのは、やはりこの地が日本海航路の重要な拠点だったからでしょう。2時間ほどの爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸が焼失し、1万9000人の市民が家を失なったそうです。

参道

二の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿

長命水

御祭神の御神徳に因む「長命水」は往古よりこんこんと湧き出て無病息災・延命長寿に欠かせない生命(いのち)の水として古くから当宮を訪ね此の水を戴き祈願を受ける賽者は跡を絶たない。宮域の名所の一つである。

芭蕉の像。松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中に、ここ敦賀に訪れ、氣比神宮にも立ち寄ったようです。

絵馬殿

神水苑

敦賀の地は往古より良質の水が豊富に湧き出ており中でも当神宮の神域はその水脈の中心である。故に江戸時代初期には日本庭園歴覧にも記された名池が誕生し、明治四十二年東宮殿下(大正天皇)御参拝の折お茶の水に用いられた一井がその由来を物語っている。昭和の大造営につづき同池に大規模の神水苑築造が成され、各方面より拝観と神水を求めて訪れる崇教者は後を絶たない。

南参道入り口と社号標

南参道を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(明治28年(1895)4月建立)

境内社はこちらから。

猿田彦神社 土公遥拝所 大神下前神社 兒宮 角鹿神社 九社の宮と神明社

氣比の杜