白山神社

勝山市平泉寺町平泉寺56-63(平成20年11月3日)

東経136度32分25.92秒、北緯36度2分25.57秒に鎮座。

 この神社は157号線・猪野信号から東に約2.5kmに鎮座しています。

 御祭神:本社・伊弉册尊、別山社・天忍穂耳尊、越南知社・大己貴尊
 境内社:開山社、稲荷社、鎮守宮、今宮神社、池尾明神、八幡神社
 由緒:この社は元正天皇の養老元年(717)泰澄大師によって創建されました。早くから白山登拝を志しておられた大師は、この年白山へ登る途中で林泉を発見し、神託によってこの地が神明遊止の地である事を教えられ、ここに神社を建てて奉斎されたのです。その林泉は今も御手洗池(みたらし)と呼ばれて湧泉清泉が湧き出で千古の影を宿しています。
 やがて山岳信仰が盛んとなり、平安時代に入るとこの地は白山登拝三馬場の越前口として益々栄え、加賀の白山本宮、美濃の長滝寺と共に白山信仰の中心となりました。
 源平合戦の折には木曽義仲がこの社に藤島の七郷を寄進し、鎌倉時代に入ると、兄頼朝に追われた義経主従がこの社で一夜を宿して安宅関に向ったとか、建武中興には牛ヶ原の地頭を討って官軍に加わり、楠公との縁故も深く、今も境内には楠公墓塔が建てられて菩提を弔っています。
 足利時代には越前国においては朝倉氏と肩を並べる一大勢力でしたが、天正2年(1574年)一向一揆勢により、社領9万石48社36堂6千坊と誇った社は灰燼に帰してしまいました。その後、学頭賢聖院顕海僧正の努力で天正11年に白山社は再興され、江戸時代には白山10里四方を支配し、朱印2百石越前松平候よりは黒印百石、勝山小笠原候からも30石の寄進を受けるなど広く崇敬を受けていました。
 明治期の神仏分離令により、平泉寺の寺号を廃して白山神社となって今に至りました。
 なお旧玄成院庭園は、昭和5年10月3日に国の名勝に指定されました。

入口から拝殿まで

 駐車場から参道を歩き始めるとすぐ左手に白山を開いた開祖・泰澄大師廟が有りますが、白山神社を目指す人もこの廟には目もくれず、訪れる人はいないようです。
 社号標が建つ入口からは広く緩い石段が続き、素木の一の台輪鳥居を潜ると右手に趣のある手水舎、左手に国の名勝に指定されている旧玄成院庭園が有ります。その後は老い杉が林立し、足元は苔の緑の絨毯が敷き詰めたようになっている中、清々しい空気を心身共に楽しみながらの参道歩きが続き、参道途中には絵馬の中から抜け出す駿馬の為の飼葉料があったり、境内社・八幡神社が祀られたりと、あちこち寄り道をしながらの散策となりますが、その後参道左側には当社発祥の地である御手洗池(池中にある影向石に白山大神が出現されたと伝えられています)があり、その水面は今でもあくまでも澄みきり、神の出現も肯ける幽玄な雰囲気が体感できました。
 参道に戻り尚も進むと行く手に屋根付きの素木両部鳥居が建ち、この鳥居を潜ればもうすぐ拝殿に行き着きます。
 拝殿は安政6年(1859)造営の木造榑葺寄棟造で、一品天眞親王筆の社額が架かっています。天正2年(1574年)一向一揆勢の焼き討ちにより焼失するまでは正面四十五間という我が国最大の拝殿が建っていたそうで、その礎石が今でも残っています。
 ここに至るまでも、この後も境内中には敷きつめたかのような見事な苔で一面覆われており、霊峰白山を背後にいただく静寂感と相まって、素晴らしい佇まいの神社でした。

境内案内図

開祖・泰澄大師廟
神社入口 社号標
素木の一の台輪鳥居
社務所と北陸で一番古い庭
といわれる旧玄成院庭園
趣のある手水舎
老い杉が林立し、足元は苔の緑の絨毯が敷き詰めたようになっている中、
清々しい空気を心身共に楽しみながらの参道歩きが続きます。
飼葉料
境内社:八幡神社
未だ参道は続きます。 御手洗池入口

御手洗池へ下る石畳 御手洗池へ下る途中にある井戸
御手洗池
池中にある影向石に白山大神が出現されたと伝えられている、当社発祥の地です。
大師手植えと伝わるご神木・三叉杉 御手洗池から拝殿に向かう参道
屋根付きの素木両部鳥居
拝殿間近の参道 苔むした石段を上がると石積みの上に
「記功碑」が建っています。

一品天眞親王筆の社額 安政6年(1859)造営の拝殿

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