白山神社 本社・境内社

 拝殿から後ろに廻ると広い石段があり、玉垣で区切られた上の境内正面に寛政7年(1795)造営の華麗な本社社殿が建立されています。現社殿は越前藩主・松平重富公による再建で、総欅の入母屋造り榑葺。
 この本社を中心に、右に別山社、左に越南知社が祀られています。この様な配置は、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀るためだそうです。
 別山社から尚も右に行くと素木造りの簡素な鳥居が建ち、ここから約220m程の参道を上がったところに境内社の三之宮が祀られています。三之宮左奥には「白山平泉寺旧境内 白山禅定道平泉寺登拝口」の案内があり、大杉の木立の中に細い登山道が続いています。三之宮への参道途中には、江戸時代盛んだった六十六部による法華経の納経所があり、又、約650年前に建立された楠木正成公墓塔も有ります。素木造りの鳥居から拝殿方面に向かうと開祖・泰澄大師を祀る開山社が大杉の木立の中、緑の苔の絨毯の向こうに見えます。
 越南知社からは左に下っていくと、稲荷社、鎮守宮、今宮神社、池尾明神等の境内社が、フカフカの苔の絨毯の中にひっそりと祀られていました。

 今回の旅は、白山信仰の中心であった加賀・越前・美濃の3ヶ所の馬場の内、福井県のこの社と、石川県の白山比盗_社への参拝が主目的でした。
 白山比盗_社は観光神社化しており、静かな参拝をしたい私としてはやや落ち着かない雰囲気がありましたが、この社は社域が広大な為か、又古くからの杜が残され苔むした参道や社殿の趣が古色然としているためか、沢山の人が訪れている割には落ち着きと神寂びた感じが残り、私としてはとても良い参拝が出来たと云う想いが強く残っている神社となりました。
 又、是非近いうちに最後の白山信仰の中心地・美濃の馬場も参拝したい…と強く想いました。

本社入り口
本社前にいる狛犬
阿吽の位置が反対で、この地域独特の台座の上に自然石風の鎚跡を残した台の上に乗り、阿は子狛を連れ、吽は片手の下に玉を置いています。動物に近い精悍な顔つきで、鬣や尾の装飾が華やかで派手目です。
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寛政7年(1795)造営の本社社殿
本社向拝彫刻
4匹の麒麟の姿が見えます。
本社木鼻・象
虹梁には躍動的な龍が彫られています。
本社前縁にいる神殿狛犬
吽には角があります。笏谷狛犬ですが、鬣が二段になっており、脇毛があり尾も数本に分かれ後ろに巻くなど、装飾的になってきていますが、桃山時代の建立と伝わるそうです。良くこの時期にこれだけの石製狛犬が造られたものですね。
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境内社:越南知社
境内社:別山社
境内右手奥に続く
境内社:三之宮への入り口
三之宮参道
三之宮参道左にある納経所
三之宮参道
三之宮参道左にある楠木正成公墓塔

境内社:三之宮
境内社:三之宮社殿正面
白山平泉寺旧境内
白山禅定道平泉寺登拝口
境内社:開山社
境内社:稲荷社 境内社
境内社:鎮守宮
境内社:今宮神社
境内社:池尾明神
境内を埋め尽くす様々な苔類

 白山信仰の歴史
 霊峰白山は、古くは「しらやま」と呼ばれ、神聖な存在として信仰されてきました。加賀・越前・飛騨・美濃の4ヶ国にまたがって聳え、河川の水源である白山を御神体として仰いだもので、農業に従事する人にとっては、農耕に不可欠な水を供給する神の山ところから水神・龍神や祖霊が こもる山として、また漁業に従事する人や日本海を行き来する船に従事する人にとっては海上の指標となる事などから航海の神さまとして信仰していました。
 白山の神に対する山岳信仰が起こると、修験道の発展により、立山などとともに、北陸の修験道の一大聖地となり、登拝する者も沢山現れました。白山を開山した泰澄は、白鳳11年(682)に越前福井の麻生津(現在の福井市38社町の泰澄寺の辺り)で生まれたと言われています。子供の頃より信仰が厚く、14歳で越智山で修行を重ね、そのため若いころから法力によって石や物を飛ばしたり、自分自身も自由に飛行したり瞬間移動することができたという伝説めいた人物でもあります。泰澄大師は、養老元年(717)に妙理大菩薩を感得して、養老3年(719)に白山妙理大権現と称して祀ったのが、霊峰白山を神仏混交的な菩薩信仰の対象として崇めることの始まりといわれています。
 その参詣登山道は禅定(標高2,702mの御前峰の山頂のこと)道とよばれ、天長9年(832)に加賀・越前・美濃の3ケ所に馬場(登山口)が設けられたといいます。馬場は、白山登山道の拠点であるだけでなく、里宮・遥拝所の所在地でもありました。各馬場には、白山を祀る寺社がそれぞれにあり、加賀には白山比盗_社、美濃には長龍寺、越前には平泉寺がありました。
 三馬場は江戸記以降、木山取権(木を伐り出す権利)なども絡み勢力争いを激化させ、禅定の祠の造営を巡り、寺社奉行に訴えるなどたびたびもめたようです。そこで、幕府は寛政8年(1688)、白山麓18ヶ村を天領とし、山頂一帯を平泉寺のものと裁定を下しました。
 明治になると、廃藩置県が行われ、白山麓18ヶ村は石川県と組み込まれ、神仏分離により白山比盗_社は寺号を廃して延喜式神名帳に記載された社名である現社名に社に改称し、越前馬場は白山神社と平泉寺に、美濃馬場は長滝白山神社と長滝寺に分離されました。それまで白山信仰の三大中心地であった加賀・越前・美濃の馬場は、勧請元ということでは、むしろ美濃が最も多く、加賀は2番目でしたが、3社のうちで延喜式神名帳に記載されているのは加賀の白山比盗_社のみであるということから、ここが全国の白山神社の総本社とされ、越前・美濃はその下に位置する地方の白山神社のうちの一つということにされ、越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比盗_社の分霊社というように由諸を書き換えました。
 第二次大戦後は、越前平泉寺・美濃長滝の両白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗っています。
 (詳しくは「白山信仰とその歴史」サイトに載っています。そちらでどうぞ。)