和霊神社

宇和島市和霊町1451(平成20年3月29日)

東経132度34分5.03秒、北緯33度13分33.32秒に鎮座。

この神社は、宇和島駅の北北西500m程の辺り、須賀川の北側に鎮座しております。須賀川を挟んで和霊公園があり、恐らく宇和島で一番大きな神社と思われます。宇和島一の神社の御祭神は山家清兵衛公頼公。と言っても愛媛県以外では殆ど知られていないと思われます。

独眼竜と言われた伊達政宗の長男秀宗が初代宇和島藩主として、この地を徳川幕府より与えられる。秀宗は長男であったが、豊臣秀吉に人質として預けられ、秀吉のもとで元服し、秀吉から一字を賜って秀宗と名乗った。のち豊臣姓も授かっている。このとき、秀吉の計らいで従五位下の侍従に叙され、豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられている。ようするに政宗は秀吉に胡麻を摺ったのだろう。ところが、徳川の世になるとこの経歴が邪魔になったと思われます。次男忠宗に家督を継がせる。忠宗の「忠」は将軍徳川秀忠の「忠」。

食えない男、政宗は色々工作をして長男の為に自立の道を探しただと思われるが、幕府が用意したのは宇和島十万石。
秀吉の時代、宇和島の地に送り込まれたのは戸田勝隆だったが、戸田は自分に逆らう者は容赦なく殺戮した。戸田は朝鮮侵略に従軍し、かの地で病没。その治世は七年間だったが、疲弊は凄まじかった。その後、藤堂高虎が五年間領主となって、多少回復するが、その後の富田信高は、戸田と似たようなもので、在封五年で改易になる。藤堂高虎が一年足らず、預かりの形で管理し、その後に伊達秀宗が入る。
つまりは、伊達氏が入るまでの18年間、宇和島は戸田・富田の悪政(計12年間)で疲弊し、どうにもならなくなると、藤堂高虎が尻拭いをしていた(計6年間)感がある。
司馬遼太郎・街道を行くより抜粋。

多分徳川幕府は失敗を期待したかと思われます。その為政宗が用意したのが六万両の金と伊達家中から選んだ家臣団。その筆頭が家老山家清兵衛。後、この神社の御祭神となられる方です。

元和六年(1620)和霊騒動と言われるお家騒動が発生する。政宗の信任が厚かった山家清兵衛を秀宗が疎んじ、(口喧しいお目付け役であったのだろう)対立していた桜田玄蕃を重用する。その後山家一族が惨殺されたのが、この事件です。

一説に依ると、己上源藏、八尾藤藏、三好兵馬、鈴木軍治等四十二人で闖入して、公頼の寝所を襲ひ、蚊帳の四隅を切って斬殺したと言う。

事件後、桜田玄蕃をはじめとする山家清兵衛の政敵達が不慮の事故で相次いで死亡し、秀宗も病床に伏す。当然、清兵衛の怨霊が怨みを晴らしているのだ。と噂となり、秀宗は清兵衛邸跡に和霊神社を創建し清兵衛の霊を慰めたと言う。

和霊公園入り口に立つ、社号標と一の鳥居。

スリムで凛々しいお顔をした狛犬です。拡大写真はこちら。

(天保3年(1832)8月建立)

石造りでは日本一と言う二の鳥居。

鳥居前左右の構え狛犬。阿吽共に子つき、やや珍しいかも知れません。拡大写真はこちら。

(安政4年(1857)建立)

須賀川に架かる御幸橋

神門

社殿は石段を登った上にあります。

石段上の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。

(文化13年(1816)春建立)

拝殿

拝殿前のブロンズ製狛犬

(昭和36年(1961)12月建立)

拝殿内部と牛鬼の面。牛鬼の説明はこちら。

本殿

神門を潜り、右手奥の竈神社。

小ぶりですが不敵な面構えをしています。手足を失っても十分存在感があります。狛犬はしばしば壊れると取り替えられてしまいます。狛犬は消耗品ではないと思います。この様なかたちで残してくれた先人に感謝!。拡大写真はこちら。

台座に大正8年4月吉日とありますが、このようなかたちで台座に乗せた年月を刻んだとおもいます。

竈神社の右手に鎮座する三島神社

正面を向いたオリエンタル風な狛犬。拡大写真はこちら。

(文政7年(1824)8月吉日建立)

山本神社 御井神社

さらに境内にくまなく目を光らせて、日夜お護りしている生猫様。

お城を思わせる石垣。規模の大きさが判ります。

民政を重んじ、小さな政府を目指した清兵衛。それ故藩主から疎んじられ仲間から憎まれた清兵衛。そんな清兵衛を慕う領民達は、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて山家一族の霊を祀ったという。他藩の領民も清兵衛のような人物が必要であったのか、ここの御分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に結構あります。清兵衛の御霊に合掌。