東金市大豆谷(まめざく)860 (平成21年1月3日)
東経140度21分23.71秒、北緯35度33分49.49秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
八鶴湖の一角にある一の鳥居から御成り街道に沿って歩けば途中から急な坂道ですが、10分程度の行程と思います。
御祭神 大己貴大神、大山昨命
由来
日吉神社は大同2年(807)、天台宗の開祖最澄が布教のために東国を巡錫したとき、奉持して来た近江国(滋賀県)山王神社の分霊を鎮祭したのが始まりという。明治維新までは神仏習合し、山王権現と称したが、明治元年現社名に改められ同6年郷社に列した。
参道沿いにそびえる樹齢百年の老杉並木(市指定文化財)が、社歴の古さを物語っている。又、神社の夏祭りに演ぜられる東金ばやしは、県指定の無形文化財となっている。(以上環境庁の案内板による)
管理人の一言。
最澄が神社を創建する筈は無いので、近くの最福寺で検索すると、最福寺公式サイトがあり、「最福寺は大同2年(807年)最澄によって創設された現在日蓮系の単立寺院です」と書かれています。最福寺の守護神として山王権現が勧請されたのでしょう。それが明治になり、分離させられたものと思われます。しかし最福寺北側の鴇ヶ嶺山頂に古山王神社があります。最福寺公式サイトによれば、元はこちらだったようです。古山王神社はこちら。
*令和元年9月13日「狛犬小僧」さん、再訪され報告を戴きました。最後に追加いたしました。
一の鳥居
「御成り街道」と「八鶴湖」
日吉神社から八鶴湖に通じるこの参道を山王坂といい、途中からS字状の切り通しとなっています。この切り通しは、嘉慶元年(1387)に日吉神社が現在地に移転されたときに造られたとか、慶長19年(1614)、「御成り街道」造成の際に開さくされたなどの説があります。
「御成り街道」とは、船橋と東金を結ぶ約36kmの道で、将軍徳川家康の命令で佐倉藩主の土井利勝が沿道の農民を動員して作ったものです。家康の「お鷹場」第1号として指定されていた東金へ、家康が鷹狩に来遊するための準備として造成されたといわれています。
また、「御成り街道」の終着点には東金御殿(現東金高校)が造営され、この御殿からの眺めを美しくしょうと造られたものが八鶴湖だといわれています。お鷹場時代の鵯ケ峰、八鶴湖の周辺は野鳥の楽園で、トキがはなやかに飛び交い、鶴も悠揚と舞い、湖上には水鳥が群雄(群遊?)し、あふれんばかりの自然美が、家康の御成りに花を添えていたことでしょう。
環境庁の案内板より。
東金、大網によく見られる切り通しです。御成り街道中での一番の激坂かもしれませんね。徳川家康様御一行は帰り道さぞかし大変だった事でしょう。
杉並木の参道 | 杉の御神木 |
杉の巨木の多い神社で、巨木の密集度では千葉県ではNo1の神社かも。林立する杉の巨木のために昼でも暗い参道で、写真撮影には苦労させられます。
石灯篭と二の鳥居
現代の殆んどの参拝客にとっては、この二の鳥居が一の鳥居となっているようです。何年前の事なのか分かりませんが、現在拝殿前に鎮座している狛猿は、以前はこの二の鳥居の位置に在ったそうです。
日吉神社らしく、灯篭に彫られた猿の浮き彫り。
普通神社の外側に並ぶ石柱ですが、ここでは参道に沿って寄付金が彫られた石柱が並んでいます。
拝殿
流れる尻尾が見事な江戸流れ狛犬。拡大写真はこちら。
(大正5年(1916)建立)
上総国山辺郡台方村(東金市)の木村嘉平次が奉納したと言われている狛猿。拡大写真はこちら。
狛犬と比較してやけに綺麗なので神社の方に聞いてみたところ、参拝された方が、自分の体の悪い部分が直る様に狛猿の同じ部分を触るので、ツルツルになってしまったそうです。また、この狛猿は二代目だそうで、残念ながら一代目についての情報は有りませんでした。
(元禄8年(1695)9月建立)
社額と本殿覆屋
灯篭と猿の浮き彫り
境内の末社
西側の鳥居。場所の分かり難い鳥居ですが、ここにも数台分の駐車場があります。
八鶴湖の湖畔に在った東金御殿は、徳川家康が東金に鷹狩に来た際泊まったと云われている宿泊施設で、1671年から19年かけて建てられたそうです。
台風15号による被害状況です。折れた御神木の撤去作業はこれからだとの事でした。やはり南側の被害が大きかったですね。
西側でも高い所の枝は折れてました。
鳥居前
階段
倒れた御神木。倒れた木ではこれが一番大きな木でした。
拝殿。北側だからか、意外に被害が少なかった様です。