大日(おおひ)神社

白石市根1388 (平成25年6月23日)

東経140度02分46.50秒、北緯35度47分11.92秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
北総線「西白井」駅より東へ新興住宅街の整備された道路の歩道を真っ直ぐ歩いていくと、急に細い道になり両脇は梨、ブドウ畑になります。突き当り北へ進みますと当神社の入口があります。駅から徒歩20分弱の距離です。境内社2社の名前の案内が無かったのが残念。

御祭神 天照坐皇大御神

御由緒
延宝5年(16677)9月15 日、元七次村村社として鎮座。明治8年(1875)12月、七次村七次新田、中木戸新田、軽井沢新田、白井木戸新田が合併し根村と改称。根村村社となる。大正3年(1913)白井村が発足し、白井村村社となる。・・・・・
境内案内板 より

入口

手水石

参道両側の獅子山

珍しい昭和の獅子山に居るのは、やはり岡崎型。拡大写真はこちら。
(昭和44年(1969)己酉3月吉日建立)

拝殿

苦みばしった目つきで参拝者を睨む、江戸流れ。拡大写真はこちら。
(明治25年(1892)壬辰5月吉日建立)

本殿

向拝竜や脇障子等

天神八幡神社

御祭神 菅原道真・生食

御由緒
一般的に、八幡社における祭神は応神天皇であるが、ここでは生食 (いけずき)と呼ばれる源平時代の名馬が祭られている。また、神社のあたりから神崎川を上流へと遡った所(日本中央競馬会(JRA)競馬学校(白井市根835?1)の裏手のあたり)にはかつて溜池があり、生食が水を飲みに来ていたという伝承も残されている。
ウィキペディア  より

平家物語> 一の谷 > 生食の沙汰 あらすじ
寿永三年の正月が来ますが都では昨年暮れの法住寺合戦(「法住寺合戦」)より院の御所を六条西洞院に移していたため、正月の儀式も祝い事も行われませんでした。一方安徳天皇を擁した屋島の平家方でも正月らしい祝い事は行いませんでした。平家の人々は都での華やかな暮らしを思い出し、今の侘しい現状に涙するのでした。同正月十一日、木曽義仲は平家追討のため西国へ出発する旨を院の御所に奏聞(報告)します。ところが同十三 日、義仲の都での狼藉を鎮めるため鎌倉より頼朝が軍勢を遣わし、既に都近くまで迫っているという情報が入ります。驚いた義仲は今井兼平らを討伐のため差し向けます。鎌倉より攻め上るのは大手の蒲冠者範頼、からめ手の九郎義経以下六万余騎ということでした。さてその頃頼朝のもとに生食(いけずき)磨墨(するすみ)という二頭の名馬がありました。梶原源太景季(かじわらげんた かげすえ)はしきりにいけずきを所望しましたが、頼朝は「非常の場合に頼朝が乗る馬だ」と言って代りに磨墨を与えました。ところが後 日佐々木四郎高綱(ささきしろう たかつな)がいけずきを所望したところ、頼朝はあっさりと与えてしまいます。木曽義仲討伐のために鎌倉を出た一行は東海道を京都へ向かいます。駿河国浮島というところで梶原源太景季は高いところに上がり、ズラリと並んだ 自軍の馬を見下ろしていました。「俺が賜った磨墨に勝る馬は一頭も無いなぁ」と満足げな梶原。ところが その中に梶原が所望して得られなかった、あのいけずきの姿がありました。聞くと「佐々木殿の馬です」との答えです。梶原は不機嫌になり、名誉を傷つけられた上は佐々木と刺し違えて死のうと待ち伏せます。そこへ何も知らない佐々木四郎高綱がやってきます。梶原のただならぬ様子を 見て「そういえば梶原殿もいけずきを所望していたのだ」と思い出す佐々木。そこで咄嗟に作り話をします。「前々からいけずきを所望していましたが、梶原殿にさえ下されなかった馬。まして私ごときがとうてい無理と思い、こっそり厨に忍び込んで盗んできたのです」と。梶原は、「なんだ、それなら俺も盗むんだった」と大笑いしました。

社殿


神社名不明

流れる尾が綺麗だが剥落が残念!。拡大写真はこちら。
(年代不明)

境内社

境内社

石祠

左の妙正大明神(日蓮大聖人お導きの神)

千葉県ですから各地の社の境内にみられます。市川市宮久保の白幡神社にもあります。