白幡神社

市川市宮久保4-2-4 (平成22年3月23日)

東経139度56分21.15秒、北緯35度44分0.4秒に鎮座。

令和2年1月25日、明大狛クラブの仲間と参拝致しました。なんと「脇参道を護る一体だけの狛犬」がきちんと一対となっております。

【神社情報・1948さんより】
千葉街道の本八幡駅前交差点より県道51号線にて1.4Km程(ほど近い所にバス停があります)の所に参道入口があります。参道は200m程つづきます。

御祭神 武内宿禰・誉田別命

石橋山の合戦に敗れた源頼朝が、治承4年(1180)10月7日、市川に落ちてきたとの知らせを受けた。千葉常胤は、6人の子と300人の家来を連れて真っ先に頼朝のもとに駆けつけた。すると頼朝は常胤の手を取り、「司馬(常胤)をもって父とする」と言ったという。2日遅れて上総広常が、「目指す頼朝殿はあの白旗の許にいられる」と宮久保の台地になびく白旗目指して二万の軍勢を引き連れてやってきた。関東八平氏の中で有力な上総氏と千葉氏が頼朝に従ったため他の三浦、土肥、秩父、大庭、梶尾、長尾氏のすべてが頼朝に従い、さらに畠山、葛西、足立、豊島、江戸、四木、青砥氏等関東の武将が頼朝に従った。こうしてわずか七騎で市川に入った頼朝が鎌倉に向かった時には十万の軍勢を従えることが出来たのだから、鎌倉幕府を開く基礎は市川で作られたと言っても過言ではない。頼朝が市川にいた一か月間、源氏の旗印である白旗が宮久保の台地上になびいていた地に白幡神社が建立された。現在の宮久保幼稚園斜め前の台地の端に木立のこんもりしているところである。
宮久保むかし話 『源頼朝と白幡神社』 より

参道入り口

一の鳥居

境内入り口

境内入り口の江戸流れ、阿の口が欠けているのが残念!。拡大写真はこちら。

年代不明

獅子山と拝殿

獅子は千尋の谷底に我が子を突き落とし、這い上がって来る強い子を育てる、というこのスタイルは、富国強兵を国是にしていた、戦前は、結構造られていますが、この獅子はやっと大人になったばかりのような若々しさです。拡大写真はこちら。

(昭和2年(1927)10月建立)

本殿

御神木

諏訪神社

諏訪社
御祭神建御名方神
当社の創建は不明なれど、当地宮久保字坂の上(今の二丁目)の高台に鎮座されておりました古社であります。その後、大正の御代初期に、現在の白旗神社境内に遷座されたものであります。昔より、この社にお詣りすると、子宝、御婦人の病に殊に御利益がいただけると、多くの信仰を集めております。又、蛇にまつわる由緒は、武田家滅亡の時、奥方始め、多くの女性達が信州諏訪湖に身を投げたといわれ、その霊が蛇の姿になって現れたといういい伝えに由来しております。

弁財天

日枝大神・天照大神・妙正大明神・大明神守

稲荷大明神

脇参道

脇参道を護る一体だけの狛犬。拡大写真はこちら。

(天保10年(1839)己亥9月吉日建立)

裏参道


以下令和2年1月25日再訪時の写真

二の鳥居

一対に復活した狛犬。拡大写真はこちら。

稲荷神社