菊田神社

習志野市津田沼3-2-5 (平成22年7月4日)

東経140度1分49.8秒、北緯35度40分52.53秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
京成津田沼駅より約350mの所にあります。参道右側には3社あり、それぞれに狛犬が居ます。参道の狛犬3組と合わせ6組の狛犬が見ることができます。

この神社は、下総三山の七年祭り参加神社の一社で有り、菊田水鳥公園の隣に鎮座しております。

御祭神 大国主命(大己貴命)・藤原時平命(境内由緒より)・伊弉諾命・大山祗命・保食尊・水速女命

御由緒
古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(810年代)よりの御社として祭祀されていました。治承年間(1177-1181年)に藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。
即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の所と定めることとし、同時に祖先の人皇60代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉賽崇敬しました。後に師経の一族はこの三山の里(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。
宝暦年間桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名。
区内各町に鎮座させられていた八坂神社、金毘羅神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。
境内由緒より抜粋。原文はこちら。

管理人の一言。
藤原時平と言えば、かの罪無き、菅原道真公を大宰府に左遷させた為、一族が道真公の怨霊に祟られた筈ですが、何とこの地で神として祀られていたのです。今でもこの神社の氏子は、道真を祀る天神様に詣でることが無いそうだが、本当なのでしょうか。又、「治承年間(1177-1181年)に藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り・・・」は史実では無い。近い人物として、加賀目代であった藤原師経がいる。平家物語に登場する師経は以下のように書かれています。

国司師高が弟近藤判官師経を加賀の目代に補せらる。
 目代下著のはじめ、国府の辺に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが折節湯をわかいてあびけるを、乱入しおひあげ、我が身あび、雑人どもおろし、馬洗ひなどしけり。寺僧怒りをなして、「昔よりこの所は、国方の者の入部することなし。すみやかに先例にまかせて、入部の押妨をとどめよ」とぞ申しける。
「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。当目代は、すべてその儀あるまじ。ただ法にまかせよ」といふほどこそありけれ、寺僧どもは国方の者を追出せんとす。国方の者どもは、ついでをもつて乱入せんとす。うちあひ、張り合ひしけるほどに、目代師経が秘蔵したりける馬の足をぞ打ち折りける。その後は互に弓箭兵仗を帯して、射あひ、切りあひ、数刻戦ふ。目代かなはじとや思ひけん、夜に入りてひきしりぞく。
 その後当国の在庁ども一千余人もよほし集めて、鵜川におし寄せて坊舎一宇も残さずみな焼き払ふ。鵜川といふは、白山の末寺なり。平家物語巻第一より。

要するに、延暦寺の別院であった白山の末寺、鵜川涌泉寺でもめ事を起こし、挙げ句の果てに焼き払ってしまった、藤原師経に最初は白山が怒り、次いで延暦寺が怒り、最後には日吉神社の神輿を担いで強訴する、といった大騒ぎとなってしまいます。

山門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべきよし、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめ、安元三年四月十三日の辰の一点に、十禅寺権現、客人、八王子、三社の神輿を飾り奉つて、陣頭へ振り奉る。
下がり松、きれ堤、賀茂の河原、ただす、梅ただ、柳原、東北院の辺に、しら大衆、神人、宮仕、専当みちみちて、いくらといふ数を知らず。神輿一条を西へ入らせ給ふに、御神宝天に輝いて、日月地に落ち給ふかと驚かる。平家物語巻第一より。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが御心にかなはぬもの」と後白河法皇が嘆いたのは有名だが、宗教的権威を振りかざし、横暴を極めた延暦寺を相手にしたのが師経の運の尽きであったようです。安元三年(1177)年四月二十日、宣旨が発せられ、加賀守藤原師高は官位を全て剥奪されて尾張国に流罪、弟の目代師経は備前国に流罪となったようです。しかし、何故この地に流罪になった訳でもない、師高が由緒書に登場するのかは不明。藤原北家の荘園があり、関係者がいたのでしょうか。更に解らないのは、御祭神を藤原時平命としている事です。道真公怨霊の祟りで若くして死んだ時平を祀らなくても良いような気がするのですが。・・・・・清涼殿落雷事件等の後、朝廷は道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されています。名誉は回復され、左遷は誤りであったと朝廷は認めた訳です。その左遷の張本人たる時平を、おおっぴらに祀れたのだろうか。朝廷により北野の地に、道真を祀る社殿が造営され、後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言われるように、道真を祀るほうが自然な気がします。

社号標

浅間大神と石祠

神社入口

参道

面白いが素人っぽく素朴な狛犬。拡大写真はこちら。

(天保9年(1838)建立)

岡崎型狛犬

(昭和59年(1984)2月吉日建立)

拝殿前の獅子山。拡大写真はこちら。

拝殿

向拝下の彫刻等

神紋。菊に田。

本殿・水鳥公園


琴平神社

琴平神社を護る江戸尾立

(年代不明)

御嶽大神

御嶽大神を護る狛犬

(年代不明)

不明の末社

阿が無惨に剥落していますが、吽は健在で中々の出来映えの狛犬です。

(天保14年(1843)12月吉日建立)

古峯神社 三峰神社

稲荷神社

右=大杉神社・他不明

子安神社

石碑

手水舎

神輿庫

宮神輿

白虎


裏参道

神社裏JR総武線