不知森(しらずもり)神社

市川市八幡2-8 (平成30年3月25日)

東経140度30分17.4秒、北緯35度53分12.01秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
JR本八幡駅又は京成八幡駅より徒歩10分程の所に竹藪を護るように鎮座しています。葛飾八幡宮の境外末社です。調べていくといつの間にか「八幡の藪知らず」がメインになってしまった。

国道14号線をはさんだ市役所の向かいに、鳥居と祠(ほこら)に護られた小さな竹藪があります。これが有名な「八幡不知森(やわたしらずのもり)」で、広辞苑にも「八幡の藪知らず」の項目があり、「ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるといわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」とあり、江戸川乱歩の「孤島の鬼」や夏目漱石の「行人」等、さまざまな小説にも、迷い込んで出られなくなることの喩えとして使われています。
市川市公式HP > 教育委員会 > 葛飾八幡宮と文化財 より

不知八幡森(通称 八幡の藪知らず)
江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ・・・・・」(1948注: 「やわたしらずの藪の事実」より )などと書かれたりしてますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られました。
入ってはいけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。・・・・・と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658〜61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本との理由は忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみ伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。「不知八幡森」の碑は安政四年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
市川市教育委員会

不知薮八幡之実怪

水戸光圀卿は試し見んと、推て此叢林に入り、顔色土の如くして出たまひ・・・(十方庵遊歴雑記 「やわたしらずの藪の事実」)

神社全景

歩道橋より

鳥居

神額

脇障子の狛犬

境内

「不知八幡森」の碑