姉埼(あねさき)神社

市原市姉崎2278 (平成17年3月5日)

東経140度03分05.05秒、北緯35度28分12.58秒に鎮座。

この神社は、JR姉ヶ崎駅の南東800m程の辺り、宮山台と言う鬱蒼とした老杉に覆われている、感じの良い境内に鎮座しております。参道に車が結構沢山停めてあるので、駐車場と化しているのかと思いきや、実は御神水を汲みに来ている車でした。この御神水を飲めば100歳迄大丈夫だそうです。私も一杯!。これで私(夫)も安心して100歳迄酒が飲めそうです。

実はここへ来るまで「姉ヶ崎神社」と思い込んでいました。どうも「JR姉ヶ崎駅」からの思い込みのようです。伝承では、昔、姉弟の神様がいて姉の神様が先 にこの地に着いたので「あねさき」となったとも言い伝えられているようです。平安初期には「姉前」と記されていたのが「前」→「埼」→「崎」に変化したと の事です。

この神社は延喜式内社で、上総一位宮とあり、主祭神は志那斗辨命(しなとべのみこと)、合祀は日本武尊、天兒屋根命、大雀命、塞三柱神です。(一宮は良く お目に掛かりますが、一位宮とはお初に聞く耳慣れない言葉です。ここ上総の国で一番位の高い神社ということなのでしょうか?)
 日本武尊が東征の折、走水の海で暴風雨に遭い、后の弟橘姫がその身を海中に投じた事によって、無事上総国へ着くことができました。 この弟橘姫を偲び、 風の神(志那斗辨命)を祀ったのが起源で、後に、景行天皇が日本武尊を、上海上(かみつうなかみ)国造の忍立化多比(おしたてけたひ)命が天兒屋根命、塞 三柱神、大雀命を合祀しました。
 天慶三年(940)朱雀天皇が平将門追討祈願に刀剣一振りを奉納、治承四年(1180)源頼朝が鎌倉への途次に「馬揃」を行い、武運長久を祈願、慶長六年(1601) 結城秀康が社殿を造営、神馬一頭を奉納、元和四年(1618)領主松平直政が社領三十六石を寄進するなど、中央政府や武家との関係が深い由緒ある神社で、明治維新後は県社に列せられました。
 またここは如何なる理由か、松を嫌い、境内には松が一本もなく、氏子は正月には門松を立てないのだそうです。

と書いておいたところ、地元の人でWikipediaの「姉埼神社」執筆にも参加したという方よりメールを戴き、松を嫌う理由が詳しく解説されているとの事。早速以下に紹介します。

当社境内には松の木がなく、氏子区域内では正月に松を飾らないという風習がある。その際、鰯の頭などの魔除けや、町内会などが配布する、門松のイラストが配され「賀正」の印字のある紙札を代用とする家庭が多い。当社祭神の支那斗弁命は、島穴神社の祭神・志那津彦命と夫婦であるとされているが、いつ帰ってくるかわからない夫を思い「待つのはつらい」と嘆いたことから、「待つ」に通じる「松」が当地では忌まれるのだという。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

今も昔も、人間も神も、家庭を顧みない男が多いのでしょうか。「私もそうだったのよ!」と我が愚妻も言っております。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ

参道入り口と一の鳥居

二の鳥居と社号標

石段の参道

拝殿正面

拝殿と本殿

境内入り口左右、面妖な顔の江戸狛犬

(文化6年(1809)6月初午建立)

悪戯盛りのガキのような狛犬

(昭和4年10月吉日建立)

狛犬の拡大写真はこちら。

車で参拝の人はこちらを利用するのでしょうか。北側に立つ鳥居と神門。

富士塚と浅間神社

天神社

手水舎