御蔵(おくら)稲荷神社

船橋市本町4-31 (平成23年1月9日)

東経139度59分33.76秒、北緯35度41分40.91秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】

御祭神 宇賀魂神
御由緒
当時飢餓に備えて穀物を蓄えておく郷蔵(ごうぐら)を建てた。そのお陰で以後、当地では飢餓を免れた。村人はその恩に報いるために、神社を祀るようになったと言われ、これを御蔵稲荷と呼ぶようになった。
旧、船橋市公式サイト 文化財・寺社等 より

御蔵稲荷の由来と謝恩の碑
この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸時代の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく郷蔵が建てられ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお蔭で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し四季折々の祭を行って来た。慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ四尺(1.2m)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等二百五十貫余(約940kg)も入っていた。地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治二十一年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲荷を背景に使っている。昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水屋敷数二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のため役立った。地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長の英断と、国、県関係機関の尽力により、六百三拾八億九千万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成四年に完成、当地における、出水の憂いが解消した。治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない。・・・・以下省略
境内由緒書より。

鳥居

手水舎

手水鉢の脇に立つ石碑。神祇伯王家の文字が見えます。吉田家ではなく、白川伯王家より正一位を授かったという事なのでしょうか。

石狐
「昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵でも、御蔵稲荷を背景に使っている。」・・・残念ながら石狐は新しく、口絵の石狐ではない。海神稲荷神社の石狐の方がらしく見えます。

管理人より一言。太宰治の写真初めて見ました。

左、神輿庫・右拝殿

社号額

神輿を蔵うところ

公園より見る御蔵稲荷神社