諭鶴羽神社

南あわじ市灘(平成19年3月26日)

76号線より灘小学校へ向かう535号線をひたすら登って行くと神社の駐車場に行き着きます。15分程でしょうか。大きな車や、車高の低い車もだめです。又道幅が一車線しか無いので、バックの苦手な方は行かない方が無難です。そのような場所だからでしょうか、鹿の群れが道路を横断しているのを目撃!。20頭程居たでしょうか。あわててカメラを構えたのですが、残念!一頭しか撮れませんでした。

『長寛勘文(1163年)』に記載された「熊野権現垂迹縁起」は、現存する熊野縁起最古のものだと言う。

昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (おうししん。王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山)に天降りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸、そのような姿で天降りになり、それから5年が経った。
戊午の年、伊予国の石槌の峯(石槌山)にお渡りになり、それから6年が経った。
甲子の年、淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)にお渡りになり、それから6年が過ぎた。庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになり、それから57年が過ぎた。
庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになり、それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。2宇の社であり、それから13年が過ぎた。壬午の年、本宮大湯原の一位木(イチイの3本の梢に3枚の月形にて天降り、8年が経った。庚寅の年、石多河(石田川)の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。跡を追い尋ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原(大斎原)に行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。
「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。月が犬飼に答えて言われた。「我は熊野三所権現である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2枚の月は両所権現と申す」といわれた。・・・・

要するに、伊予国の石鎚の峰、淡路国の諭鶴羽の峰、紀伊国の熊野、元は同じだと言いたいのでしょうか。

社号標と神社前の景色。

神社入り口。由緒書きはこちら。

かって広大な領域を持っていたようです。

境内入口で最初に出迎えてくれる昭和。昭和淡路バージョンか。

(昭和25年(1950)建立)

拝殿。奉納 諭鶴羽権現 ゆずりは神域保全奉仕会と書かれた幟が立っています。

手前の昭和。

(昭和56年(1981)7月吉日建立)

結構古そうですが、年代は不明です。拡大写真はこちら。

タブの森と元熊野宮諭鶴羽宮と書かれた石碑。石碑の拡大写真はこちら。

豊かな自然が残されています。神域はしっかり保全されているようです。

拝殿内部と本殿。

境内社

奥宮十二所神社

(昭和53年(1978)7月吉日建立)

神仏混交時代の名残を留める石碑。

かっては山中にこの石碑が立っていたようです。

豊かな自然に包まれた素晴らしい神社です。機会があれば次は歩きで参拝したいと思います。

下山途中でもこんなに可愛い子に出会いました。一体この子は誰でしょうか。

 

正面に見えるのは沼島。