大斎原

田辺市本宮(平成18年3月29日)

熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)。熊野川、音無川、岩田川の三つの川が作った中州で、現在の社地の8倍の広さだったようです。明治22年に発生した熊野川の大洪水以前はこの様に社殿が建っていたようです。しかし明治になるまでの間一回も洪水が無かったのでしょうか。

由緒書きはこちら。

 熊野は本宮、新宮、那智を三山と申す。歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を踰(こ)えて、一歩三礼して御参拝ありし。後白河帝が、脱位ののち本宮へ御幸三十二度の時御前にて、『玉葉』忘るなよ雲は都を隔つともなれて久しき三熊野の月巫祝(みこ)に託して、神詠の御答えに、暫くもいかが忘れん君を守(も)る心くもらぬ三熊野の月また後鳥羽上皇は、本宮焼けてのちの歳の内に遷宮(せんぐう)侍りしに参りあいたまいて、『熊野略記』 契りあらば嬉しくかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空万乗の至尊をもって、その正遷宮の折にあいたまいしを、かくばかり御喜悦ありしなり。しかるに、在来の社殿、音無(おとなし)川の小島に在(おわ)せしが、去る二十二年の大水に諸神体、神宝、古文書とともにことごとく流失し、只今は従来の地と全く異なる地に立ちあり。万事万物新しき物のみで、露軍より分捕の大砲など社前に並べあるも、これは器械で製造し得べく、また、ことにより外国人の悪感を買うの具とも成りぬべし。これに反し、流失せし旧社殿跡地の周囲に群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝、名相、忠臣、勇士、貴嬪(きひん)、歌仙が、心を澄ましてその下に敬神の実を挙げられたる旧蹟、これぞ伊勢、八幡の諸廟と並んでわが国の誇りともすべき物なるを、一昨夏神主の社宅を造るとて目星(めぼし)き老樹ことごとく伐り倒さる。吾輩故障を容れしに、氏子総代、神主と一つ穴で ※言(ようげん)揚々として、むかしよりかかる英断の神官を見ず、老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とする利益おびただしとて、その時伐採り見て哭(な)きし村民を嘲ること限りなし。その神主は他国の馬骨で、土地に何の関係なければ惜し気もなくかかる濫伐を遂げ、神威を損じ、たちまち何方へか転任し、今日誰が何と小言吐くも相手なければ全く狐に魅(つま)まれしごとし。(南方熊楠、神社合祀に関する意見より)

青空文庫で原文が読めます。

日本一の大鳥居。

江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、つまり禊ぎをしなければ、本宮の神域に入ることは出来なかったようです。

左が元境内摂末社・右が中四社・下四社。

大鳥居の反対側に立つ鳥居。