弘前市西茂森1-1-34 (平成21年7月22日)
東経140度27分47.03秒、北緯40度35分55.79秒に鎮座。
弘前城西南の裏鬼門にあたる茂森町。長勝寺を西の外れに置き、寺が並んでいる禅林街。高台となっており、信仰上の守りだけでなく、軍事上の砦でもあったようです。その高台の北東端に、天満宮は鎮座しております。明治以前は大行院と言い、領内修験(山伏)の触頭を勤めてきたと言われており、城に一番近い場所で見晴らしの良いこの地にあるのは、単なる偶然とは思えません。
御祭神 菅原道真朝臣命
例祭日 六月二十五日
由緒
開祖は菅家の未裔珍重丸の十二代の後胤にあたる大行院栄尊という人で、京都三宝院、後に越後の東光院に居たのを慶長三年(一五九八)、京都近衛家の要請津軽右京太夫為信の招きに応じて、南郡大根子村に祈願所をもうけ仮堂とし、長永寺松峰山大行院と称し津軽の山伏を支配する司頭であった。慶長四年二月、中郡八幡村へ移住し寺禄三十石を与えられ、寛永二年新寺町へ移住。報恩寺造営に付き、宝暦四年 (一七五五) 津軽藩薬草院のあった西茂森の現在地に屋敷繰替。明治四年修験の廃止により、神道天満宮となる。御祭神と本尊の文珠菩薩は代々大行院の代神として祀っていた御神体と、種里にあった大浦家の先祖が祀っていた舘神、慶長十五年信牧公の時弘前城に移し、その後慶長十五年、信政公の命に依り植田村橋雲寺に移した天神さまを明治四年再び天満宮に移し祭った御神体を併せ祀っている。
青森県神社庁公式サイトより。
由緒書を読んでも良く解りません。解らないので勝手に解釈します。
御祭神の天神さまは、大浦家ご先祖が館神として祀っていたが、二代信牧公の時代(慶長15年)弘前城に移し、四代信政公の時代(由緒書の慶長十五年は間違い)植田村橋雲寺に移し、明治四年この地に遷し天満宮とした。代々大行院の代神として祀っていた御祭神も併せ祀っている。
明治の世になり江戸時代の檀家制度に変わる氏子制度の為、茂森町にも神社が必要だった筈です。明治政府から嫌われた修験道の大行院に白羽の矢が立ち、その為、愛宕山橋雲寺(岩木町)から菅原天神を急遽移建して天満宮としたと思われます。しかし、ご本尊は遷すことなく(多分)この神社に祀られているようです。卯年の一代様は文殊菩薩。少なくとも卯年生まれの人達が手を合せるのは天神様でなく文殊菩薩と思われます。
神社入り口と社号標
参道
四の鳥居と狛犬
素朴だが江戸流の尻尾を持つ狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和3年(1928)11月10日建立)
拝殿
右手の石碑は「天下梅花主 扶桑文字祖」とあります。「菅神入宋授衣記」によれば、仁治二年(1241)12月18日、東福寺の聖一国師(円爾弁円)のもとに天神(道真)が顕れ、禅を問うたが、聖一国師は師である宋の佛鑑禅師(無準師範)への参禅を勧めたので、天神はその夜のうちに径山にいる無準師範のもとに顕れ、一枝の梅花を持って「唐衣おらで北野の神ぞとは袖に持ちたる梅にても知れ」という和歌を天神は示し、それに対して禅師が「天下梅花主 扶桑文字祖 這箇正法眼 雲門答曰普」という漢詩で応えたとされます。
本殿
木鼻の狛犬
稲荷神社。中津軽郡西目屋村砂子瀬鎮座の稲荷神社ですが津軽ダムで水没する為、こに合祀されたそうです。
狐さん
県天然記念物、天満宮の枝垂れ桜、樹齢五百年以上
流石「天下梅花主」。梅の木がありその梅の実。ご近所の方でしょうか。この実を採り袋に入れていました。
絵馬
兎。卯年の方が奉納したものと思われます。