猿賀神社

平川市猿賀 (平成21年7月20日)

東経140度33分59.13秒、北緯40度36分50.17秒に鎮座。

この神社は、弘南鉄道津軽尾上駅の西1km程の辺りに鎮座しております。津軽藩の祈願所であった猿賀山長命院は広大な寺域を持っていたようで、現在でも隣の猿賀公園を含めとても広い社域を有する神社です。景色も素晴らしく静かな境内は神に祈るに相応しい雰囲気をたたえております。

奥州津軽の霊地猿賀神社
御由緒略記
御祭神 主神:上毛野君田道命(かみつけぬのきみたみちのみこと:崇神天皇の五世孫)
    相殿:保食神
御由緒
御祭神上毛野君田道命は仁徳天皇五十五年(皇紀1027年・西暦367年)伊寺の水門に於て暴夷と戦って戦死せられた。
延暦十二年八月二十三日(皇紀1453年・西暦793年)征夷大将軍坂上田村麻呂霊感を受けて現地西方猿賀野に仮遷座し更に勅命により大同二年八月十五日(皇紀1467年・西暦807年)現在地に正遷座奉った。
爾来深砂宮(神蛇宮)と崇められ農業漁業諸産業交通安全の守護神として神徳四辺に遍く地方唯一の津軽の霊地として仰がるるに至った。
明治四年猿賀神社と改称する。
境内由緒書より。境内案内図と全文はこちら。

御祭神 上毛野君田道命・(相殿神)保食神
例祭日 旧八月十五日
由緒
桓武天皇の御代、坂上田村麻呂将軍が暴夷を平定することになり、兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍はその趣を天皇に奏上したところ、勅命により大同二年 (八〇七) 八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮と崇められ御神徳四辺に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては藤原秀衡、北畠顕家、安倍氏代々等の国司、探題の崇敬篤く、藩政時代に入り津軽為信公により祈願所と定められ、代々の藩主の守護のもと、社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった。明治四年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、明治六年郷社、更に明治十三年県社に昇格、昭和三十四年神社本庁別表神社に加列され今日に及んでいる。辰年、巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。
青森県神社庁公式サイトより。

主祭神の上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)は、蝦夷討伐の将であった。日本書紀には、仁徳天皇55年(367年)、田道は伊寺水門(いじのみと)で敗死し、後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとある。社伝によれば、敗死した田道は従者によって埋葬されたが、後に蝦夷が墓を暴くと、田道の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々は恐れて現在地西方の猿賀野に祀ったのに始まると伝える。二百年後の欽明天皇28年(567年)に当地で洪水があり、田道の神霊が白馬にまたがり流木を舟にして流れに乗り、現在地に遷座したと伝える。

桓武天皇の時代、蝦夷征討に苦戦していた坂上田村麻呂が田道の霊に導かれて大勝したので、延暦12年(793年)、田村麻呂は現在地に祠を作り、大同2年(807年)、勅命により社殿が造営された。

後に、仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合し、深砂大権現(神蛇宮)と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡、北畠顕家ら附近にかかわった武将たちの崇敬を集めた。江戸時代には津軽藩の祈願所となり、猿賀山長命院と号する修験道場となった。明治の神仏分離により、明治4年 (1871年) に神社となり、地名より猿賀神社に改称した。現在も、神社の前(かつては境内地)にはかつての別当寺である天台宗神宮寺が残る。明治16年 (1883年) に県社に列格した。昭和34年(1959年)に神社本庁の別表神社に加列された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

ここの御分霊を勧請したと言う、「下(しも)の猿賀さま」とも呼ばれる、富野猿賀神社では猿賀深砂大権現を祀り、農業と船乗り守護神として崇敬されているようです。ここは御祭神を上毛野君田道命とした為、辰年、 巳年生まれの守護神となったようです。

117号線に立つ一の鳥居と社号標

参道

境内入り口

境内

最初は左側に一体だけの狛犬(多分明治)。拡大写真はこちら。

巨大な渦巻き尻尾が目立つ津軽半構え。拡大写真はこちら。

(大正9年(1920)8月15日建立)

尻尾が火炎のように立っています。津軽では珍しい玉、子狛付きの狛犬。拡大写真はこちら。

(大正15年(1926)8月15日建立)

昭和の津軽半構え。拡大写真はこちら。

(昭和5年(1930)8月15日建立)

拝殿

向拝下の龍と木鼻の狛犬

本殿

池上神社。医薬の神、少彦名神を祀っています。嘗ては薬師堂かと思われます。

神霊碑参道入り口に立つ鳥居?。猿賀大神と書かれています。

神霊碑。上毛野君田神霊と書かれています。上毛野君田道命=猿賀大神のようです。

水天宮。案内図にはあかい堂(水天宮)と書かれています。御祭神は水波能売神となっていますが、嘗て、ここが寺院だった時、仏前などに供養される水、閼伽を汲んだ閼伽井堂で、その水を守る為水天を祀ったのが起源と思われます。

天井に蛇がいます。水天が蛇の化身ということは無いようです。猿賀神社の御祭神が深砂大権現(神蛇宮)だった為でしょうか。

胸肩神社参道を守る狛犬。拡大写真はこちら。

(明治28年(1895)8月15日建立)

その次に控えるスリムな狛犬。拡大写真はこちら。

(明治44年(1911)8月15日建立)

胸肩神社鳥居と狛犬

安政3年(1856)丙辰8月15日に作られた狛犬は壊れたのでしょうか。皇太子殿下御成婚記念とあるので、昭和34年(1959)に再建されたようです。拡大写真はこちら。

(昭和34年(1959)再建)

鏡ヶ池内の中島に鎮座し、市杵島姫命を祀る胸肩神社(弁天宮)。これも明治以前は弁財天を祀っていた弁天宮であった筈です。

胸肩神社の脇に鎮座する日吉神社

蓮の花