熊野神社

にかほ市象潟町一丁目塩越5 (平成28年8月20日)

東経139度54分04.10秒、北緯39度12分38.00秒に鎮座。

この神社は、JR羽越本線・象潟駅の北北西800m程の辺り、一丁目塩越の街中に鎮座しております。

御祭神 伊弉諾尊・素盞嗚尊・速玉男命

由緒
熊野神社は、後鳥羽天皇文治2年紀伊国飢饉にして僧俗の衝突の折柄、牟婁郡熊野三山の別当教眞坊妾腹の孫に当る大円坊、熊野山の分霊を奉じ海路芳渟の浦に着きそれより敦賀に出て便舩により、この地象潟に着し、神明の杜に小祠を建て、奉祀したのを創始とする。
爾来星移り物替り、時々の変遷はあったが、最明寺時頼の時四霊地の一に加えられる。
寛永18年六郷兵庫頭政乗の領有となるに至って、祝融の災あり。
万治2年己亥年再建の砌、六郷家の祖郷なる仙北郡六郷に於て、崇敬篤い鎮守熊野神社の由緒に鑑み、大いに宮殿造営の土木を起し本社に熊野神社を相殿に祀る。
戊辰の役に、官軍秋田藩佐竹家決死隊は、三崎口出陣の砌、熊野神社に武運の長久を祈願し、記名の上に髪を結い付け3尺の大額となして奉納する。
慶応4戊辰年潤4月、隊長荒川久太郎秀種以下81名敬白。
又奥羽鎮撫の為下向せし、当時の副総督沢三位為星卿も奉幣せらる。
明治6年郷社に列せられ同40年神饌幣帛料供進指定社となる。
昭和22年11月15日浮浪者の弄火により本殿拝殿宝物悉く鳥有に帰す。
氏子は大東亜戦の戦傷未だ癒えざる中に浄財労力惜げなく捧げ本殿拝殿社務所共に竣工し、昭和24年5月2日賑々しく遷座祭を挙行す。
秋田県神社庁公式サイト より。

御祭神 伊弉諾尊・事解男命・速玉男命

由緒
文治2年(1186)に紀伊国(現・和歌山県)で飢饉による騒動があったとき、熊野三山の別当の孫にあたる大円坊という人が熊野山からご分霊を奉じて海路象潟にいたり神明森(現境内)に祠を建てて祀ったのが始まりといいます。その後さらに万治年間(1658〜1661)あらためて社殿が造営されたと伝えられております。しかし度々の火災やさまざま変遷を経て今日に至っておりますが明治6年(1873)には郷社に列せられました。
元禄2年(1689)6月16日(現暦8月1日)は松尾芭蕉が象潟に到着した日ですが、この日がたまたまこの神社の祭りでした。曽良日記には祭りで宿が女客でいっぱいであったため「向屋」に泊まったと記され、この祭りに関しての一句は
象潟や料理何くふ神祭(曽良)
というものでした。また、天明4年(1784)には菅江真澄も参詣しています。
さらにこの社には慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、政府軍の荒川遊撃隊が佐幕派の庄内軍との戦いの出撃にあたり作法に則って全員が頭髪を切って納め、武運長久を祈願したことがあります。なお、この戦いで二名の隊員が武運つたなく戦死しています。
現在祭は5月の第3日曜日、古四王神社と同日で「象潟の祭り」として町を挙げて盛大におこなわれております。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

境内

拝殿

幣殿

本殿


須賀神社