三坂神社

山口市徳地岸見557(平成20年7月31日)

東経131度37分14.12秒、北緯34度8分30.25秒に鎮座。

この神社は、佐波川の西側、24号線・防府徳地線を防府に向って南下し、防府市に入る少し手前右側に鎮座しております。

主祭神:大国主神・事代主神
配祀神:素盞嗚尊・大歳神・埴山姫命

創建の年月は不明。奈良時代の天平十年(七三八)『周防国正税帳』に、「周防国御坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給う」とある。平安時代の『続日本後紀』には、「承和六年(八三九)周防国三坂神社に従五位下を授け奉る」とある。『三代実録』には、「貞観九年(八六七)従三位を授く」と。『延喜式神名帳』に、「周防国十座、佐波郡六座御坂神社」との記載がある。『長寛勘文』には、「天慶三年(九四〇)諸神社位記請印の事あり、去る承平五年(九三五)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加う」と書かれている。当社は再々火災に遭った模様で、天徳年間(九五七〜)、鎌倉時代の建長七年(一二五五)、室町時代の応永二年(一三九五)、戦国時代の文明十一年(一四七九)、大永二年(一五二二)、安土桃山時代の天正六年(一五七八)、江戸時代の延宝八年(一六八〇)に、それぞれ「再建のことあり」と伝えられている。文久元年(一八六一)に現在の社殿が建てられた。『周防徳地誌』に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り、能楽を奏して、御神意を慰め奉り、神馬・馬具等を献納せり」とあり、参道の石畳は尊氏が敷いたという。又、「豊臣秀吉公、三坂神社に参り、五色の吹貫等を献納し、当社の釣鐘を借りて用い、石州津和野永明寺に返したるものなり…」という。鐘の銘に、「周防国裟摩郡岸見村三坂神社 銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門(応永二歳)(以下略)」とある。二ノ鳥居の銘に「延喜式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(一六九八)戊陽月」とあり、四代藩主吉広の寄進であったことが分る。宝永年間(一七〇四〜)以来、船路八幡宮との間で続いた式内社論争も、明治四年(一八七一)に決着し、明治六年(一八七三)に準郷社格となり、同八年(一八七五)郷社に列せられる。明治三十五年(一九〇二)、本殿を銅板に葺替える。大正四年(一九一五)、毛利元昭公御参拝。大正八年(一九一九)県社に列せらる。昭和五年(一九三〇)、一二〇〇年祭斎行。日中戦争に続く大戦中に、武運長久祈願のための参拝者は数知れず、防石鉄道岸見駅から社頭まで二キロの道を延々たる人波が続いたという。一日最高祈願数は、八八〇名に達した。昭和二十年(一九四五)の終戦の年、国教分離により社格を削除。昭和二十一年(一九四六)に占領軍MPの臨検を受けたが、参拝者名簿は事前に焼却した。祈願写真は、隣家の床下に隠して無事であった。その数一万数千枚である。
山口県神社庁より。

文中「宝永年間以来、船路八幡宮との間で続いた式内社論争も、明治四年に決着し・・・・」とあるように、敗れた、船路八幡宮の旧名称は「式内御坂神社」。「改称を命ぜられ、八幡宮と称するようになった。」と言う。因みに船路八幡宮の御祭神は道反大神(ちがえしのおおかみ)。

道反大神とは、伊弉諾尊が黄泉国から戻る時、黄泉比良坂に現れ黄泉坂を塞いだ石であり、三坂は、御坂であり、坂は境のことだとも言われ、おそらく境を守る神だったのでしょう。船路の御坂神社は名前を替えられ、ここ三坂神社は御祭神を取り替えられたようです。

神社入り口

参道。後ろ左手の山は三条山。

拝殿

拝殿前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。

(文政7年(1824)7月建立)

拝殿

社殿全景