住吉神社

宇部市船木(平成20年7月29日)

東経131度13分22.05秒、北緯34度2分29.73秒に鎮座。

この神社は、29号・宇部船木線が、2号山陽道にぶつかる、茶屋交差点の東150m程の辺りに鎮座しております。我々が持っている地図には記載が無く、カーナビに載っていた為、急遽参拝のはこびになりました。

大木森住吉神社(おおぎもりすみよしじんじゃ)略記
祭神(主神)底筒男命・表筒男命・中筒男命
(配祀神)大帯姫命・建内宿祢
主要祭典例祭(五月壬二日)、祈年祭(旧暦二月吉日)、新嘗祭(十一月二三巳)
由緒沿革
人皇第十四代仲哀天皇・神功皇后海外出兵の時、此の地に有りし楠の大木を切って四十八艘の軍船をこの里人に造らされた。その時住吉の大神はわが和魂は皇后の身を守り、荒魂は先鋒となりて軍船を導かんとのお告げあり。皇后神の教を得て拝礼し、荒魂は軍先鋒となり、和魂は玉船鎮(船玉)となり守り給う。めでたく御帰朝の時、住吉の大神は皇后に教えていう。「吾荒魂を、穴門の山田村に祭らしめよ」と。時に穴門直の祖践立津守連の祖田裳見宿祢、神の教えを聞て皇后にもうしていうには、「神の居らんとの地に必定〆奉らん」と。則践立をもて荒魂を祭るの神主に勅宣し給う。文化十一年(一八一四)一六五〇年祭にあたり、有志の人々奉財して少しく修理せり。、平成四年(一九九二)七月、社殿焼失。氏子奉寄進により平成九年五月新社殿再建。

岡崎八幡宮・大木森住吉神社 御神酒醸造 略記
御由緒
 宝亀元年(770)光仁天皇の勅使として、和気清麿公が宇佐神宮へ御下向の時、船木の歴史をお聞きになり、神功皇后の深い因縁の地であることをお知りになった。御帰路の際、宇佐神宮の御分霊をこの地に鎮座されたことが当社の創立である。
 神功皇后が海外出兵の時、この地の楠の大木を切り、四八艘の軍艦を造られた。この地方を船木と謂ふ(日本書紀)御神酒の造り始めは、皇后がこの中国地方にて米の作り方を習われ、大阪に帰られるとき、この地にお手植えになられた米で御神酒を造り、神様にお供えしたのが始めと謂われている。古き世の事なれば、定かにと言い難しと言えども、大阪の住吉大社に『皇后、米の作り方を習い帰らる。』の古事があり、あながちうそとも言い難し。その米を早米と申し、稲穂の背丈が170センチメートルを超える。毎年のお田植え祭により、種子は継承されている。
 応永三年(1396)長門国守護職大内義弘は当宮に神田寄付、古事により毎年旧暦二月に神田早米植付けをなし祈年祭とし、六月中に刈り上げ、早米初穂をもって神飯(ミケ)・神酒(ミキ)を造り新嘗祭を奉仕。
 のちに、藩主毛利家の御崇敬篤く、祈年祭、新嘗祭を執行する。武運長久、五穀豊饒の御祈祷を執行し早米を毛利家に献上、その御礼として毎年、四十二石(420斗)の酒米が毛利家より当神社に献納された。
 奈良時代より酒造監察制度はあり、社家の宇津見宮司家が代々醸造に携わり、口伝えにより継承されている。現在の醸造法は室町時代の醸造法である。明治時代になり酒税法により明治三十二年十月五日酒醸免許認可。(清酒醸造)
 御神酒清酒醸造免許認可神社は、伊勢神宮、出雲大社、莫越山神社と当神社四社である。他に醸造免許認可神社は、全国に四十社ほどあるがドブ酒といわれる酒を醸造している。
 元来、早米神酒は年代からして大木森住吉宮の物であると思われる。
現在の醸造概要
昭和九年、御神酒醸造殿を建立、
戦前は、旧暦二月と九月の年二度の醸造であったが、戦後年一度十月の醸造になった。
醸造量は、一石であったが、平成九年より二石を醸造。
例祭、新嘗祭に氏子崇敬者に振る舞われる。
その年の気象条件に神酒の善し悪しが定まれるが、最近では産業技術センターの協力により良酒の御神酒ができつつある。
平成十七年 宮司 宇津見光則 記

ご祭神は、住吉大明神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)です。海上安全を守護する神で、この地の里人は、古来ひとりも海難にであった者がいないと伝えられています。・・・・・・教育委員会・全文はこちら。

神社入り口

左手の看板には「八月七日水神祭・水神踊 下田町自治会」と書かれています。地図を見ると下田と書かれている場所はここから1.5km程も離れています。

二の鳥居

拝殿と本殿

拝殿前の狛犬。怖そうな顔をしていますが、良く見ると可愛い顔をしています。拡大写真はこちら。

(文化11年(1814)甲戌6月建立)

庚申塔と末社