中山神社

下関市綾羅木本町7-10-8(平成20年7月30日)

東経130度55分14.64秒、北緯34度0分11.71秒に鎮座。

この神社は、191号線、綾羅木駅近くに中山神社入口という交差点があります。交差点を西に入ると正面に一の鳥居が見えて来ます。現在は両側に住宅地が広がっていますが、嘗ては神社の参道であったのかも知れません。海岸の近くに建つ神社らしく松の美しい神社です。普段は訪れる人も少ないのでしょうか、静かに参拝出来ます。手を合わせながら幕末に思いを馳せるのも良いのではないでしょうか。

幕末の一頁を彩る「天誅組の変」。倒幕の魁となった事件だが、首謀者の一人がこの神社の御祭神、中山忠光。五條の代官所を襲い、代官・鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払ったあたり迄は威勢が良かったようですが、8月18日の政変で天誅組は一夜にして官軍から朝敵となり、追討する側から追討される側へと変わってしまった。その後、吉村寅太郎を含む三人の総裁は戦死。しかし、中山忠光は吉野から大坂に向かい、その後長州へと逃れることができたが、長州藩そのものが、幕府恭順派(俗論党)が主導権を握ると、中山忠光の居場所は無く、結局豊浦郡豊北町の田耕で暗殺されてしまいます。遺体は棺に入れ馬関へ運ぶつもりであったが、途中で夜が明けたため、綾羅木の地に葬られたという。遺骸は、その後現在地に改葬され、墓(国史跡)の場所に中山神社が創建されたそうです。

神社入り口

神門

拝殿

本殿

藤原忠光卿神霊と書かれています。教育委員会の説明はこちら。

中山忠光が暗殺された時、赤間関の船問屋恩地与兵衛の次女登美は彼の子供を宿していたようです。それが南加(仲子)。南加は維新後、伯爵(後に侯爵)となった嵯峨公勝(きんとう)に嫁ぎ、その子嵯峨実勝(さねとう)と妻(濱口)尚子との間に産まれた長女が浩(ひろ)である。すなわち浩は中山忠光の曾孫に当たるのです。この嵯峨浩が、後の愛新覚羅浩。満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟、溥傑の妻。ややこしい話で恐縮だが、そういった縁で、中国大陸を望む、この地に愛新覚羅社が創建されたようです。

大陸に向って建つ社殿。石碑全文はこちら。

中日親善の為にふた國の永久(とわ)のむすびのかすがいになりはてたき我がいのちかな(愛新覚羅浩)