石鎚大権現

下関市吉見古宿町9-7(平成20年7月30日)

東経130度54分18.58秒、北緯34度3分47.77秒に鎮座。

この神社は、山陰本線・吉見駅の南500m程の辺り、吉見漁港を見下ろすように、山の斜面に鎮座しております。

地図には石鎚大権現天狗乃宮と書いてあります。鳥居の額は「天狗乃宮」、又は「石鎚大権現」とあります。日本七霊山の一つとして名高い石鎚神社の御祭神「石土毘古命(いわつちひこのみこと)、また石鎚大神(いしづちおおかみ)」をお祀りする神社です。とここまでは、神社本庁包括の普通の神社ですが、この神社にはもう一つの顔があります。教派神道として宗教法人石鎚本教・吉見教会と言っております。明治政府により無理やり分離されられた仏教との習合、あるいは弾圧された修験道が復活しているようです。公式サイトはこちら。

石鎚山は古くから日本七霊山の一つとして名高く、日本霊異記には「石鎚山の名は石槌の神が坐すによる」とある。役小角によって開かれたと伝えられ、その後、寂仙・上仙・空海・光定といった高僧が修行した。以来、石鎚蔵王権現と称され、別当の前神寺(四国霊場64番)・横峰寺(四国霊場60番)のもとで、神仏習合・修験の道場として繁栄した。
また、朝廷・武家の崇敬極めて篤く、桓武天皇の勅願によって建立された前神寺には、文徳帝・高倉帝・崇徳帝・後醍醐帝など歴代天皇が納めた仏像や経巻が伝わる。興国3年(1342年)には後村上天皇が朝敵退散を祈願するために勅使を遣わしている。
武家では河野氏が篤く崇敬し、また、伊予の領主となった福島正則も参籠している。歴代西条藩主・小松藩主も厚く遇した。
明治になると、神仏分離によって前神寺と横峰寺は廃され、石鎚神社となった。前神寺の境内は石鎚神社の本社となり、横峰寺は西の遙拝所とされた。なお、前神寺は明治12年、塔頭寺院の医王院と合併し、前上寺として復興した。同40年、旧称に復す。また、横峰寺は大峰寺として復興し、明治42年、旧称に復した。
戦後は神社本庁に属して、別表神社に加列。同時に宗教法人石鎚本教を設立し、神仏習合の伝統に基づく教化活動を行っている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

一の鳥居。しかし入り口ではなく駐車場となっています。入り口は右手もう少しです。

崖に張り付くように建っています。「桜の咲く丘に社殿を建てよ!」との御神託によるものだそうです。

神社入り口

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。

仁王門

仁王像

参道

境内入り口

拝殿

本殿と拝殿内部

石鎚神社本社

不敵な面構えの狛犬です。拡大写真はこちら。

(昭和32年(1957)11月吉日建立)

境内よりの風景。水産大学のボートでしょうか。