赤間神宮

下関市阿弥陀寺町4-1(平成20年7月29日)

東経130度57分3.3秒、北緯33度57分23.5秒に鎮座。

この神社は、関門海峡を目の前に臨む場所に鎮座しており、目の前が海峡を挟んで、北九州市門司となっています。

今を去る八〇〇年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か八才をもって平家一門と共に壇之浦に崩じ給うや赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し 建久二年 朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い建礼門院御乳母の女 少将の局命阿尼をして奉侍の上、勅願寺として永く天皇の御冥福を祈らしめ給う、朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝亦枚挙にいとまなし
 明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し 御影堂を改めて天皇社と称せられ 明治八年十月七日勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い、社殿を造営せしめらる。昭和十五年八月一日天皇陛下には勅使を差し遣わされ官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、社殿又改造し輪奐の美整いしが惜しむべし大東亜大戦の空襲を蒙り 神殿以下悉く焼失加ふるに未曽有の敗戦に依り復興造営は至難を極めしも 本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦闘二十年にして完工、昭和四十年四月御祭神七八〇年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は昔日に倍し実に陸の龍宮と称えらるるに至れり。
赤間神宮公式サイトより。

住所が阿弥陀寺町となっていることからも分るように、ここは阿弥陀寺の門前町。嘗て歴代の天皇が京都泉涌寺に祀られたように、明治以前、天皇家の葬儀は勿論仏式。しかしここも、明治維新とともに復活?(想像しすぎかも)した神道による祭祀にかなり強引に切り替えられたようです。

平家物語「先帝身投げ」のくだりに
「そもそもあまぜ、われをばいづちへぐしてゆかんとはするぞ」と幼い安徳天皇が二位殿に尋ねたその返事は
「このくにはそくさんへんどとまうして、ものうきさかひにてさぶらふ。あのなみのしたにこそ、ごくらくじやうどとて、めでたきみやこのさぶらふ。それへぐしまゐらせさぶらふぞ」と、さまざまになぐさめまゐらせしかば、やまばといろのぎよいにびんづらゆはせたまひて、おんなみだにおぼれ、ちひさううつくしきおんてをあはせ、まづひんがしにむかはせたまひて、いせだいじんぐう、しやうはちまんぐうに、おんいとままうさせおはしまし、そののちにしにむかはせたまひて、おんねんぶつありしかば、二位殿やがていだきまゐらせて、「なみのそこにもみやこのさぶらふぞ」となぐさめまゐらせて、ちひろのそこにぞしづみたまふ。かなしきかな、むじやうのはるのかぜ」
安徳天皇は二位殿に抱かれて、浪の下の極楽浄土という目出度き都へと旅立って行かれた。と書かれています。

その後、建久2年(1191)12月14日後鳥羽天皇は、長門国に対して安徳天皇の陵墓に御影堂を建てることを命じ、建礼門院の乳母の娘少将局が髪を下ろして命阿尼となり、安徳帝の菩提を弔らったといわれています。昔の都であった福原(現神戸市兵庫区)から、安徳帝の十一面観音像、建礼門院の持仏の弥陀三尊、清盛の持仏の弥陀三尊、重盛の持仏の釈迦像などを奉還して、本尊として祀ったと伝えられています。それらの仏像は明治の初め、経巻と共に焼き捨てられたようです。

境内案内図はこちら。

神社入り口と社号標

水天門

裏側より見る水天門。対面は九州。

外拝殿正面

石段左右には中国製の獅子一対。

外拝殿

拝殿前の鈴昭和

内拝殿

内拝殿を護るライオン達

耳なし芳一堂と平家一門之墓

その昔 この阿弥陀寺(現赤間神宮)に芳一といへる琵琶法師あり。夜毎に平家の亡霊来り いづくともなく芳一を誘い出でけるを ある夜番僧これを見あと追いければ やがて行く程に平家一門の墓前に端座し一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す。あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛ぴ往うあり その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするぞ とて自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに 不思議やその夜半 亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども答えず見れども姿なし 暗夜に見えたるは只両耳のみ 遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ。是より人呼びて耳なし芳一と謂うなり。

小泉八雲の「怪談」で広く知られるようになった、「耳なし芳一」のお話だが、茫々とした草原の中に苔むした墓が立ち並んでいる光景を想像していました。来て見ると、以外に狭いのでびっくり。でも敗軍の兵士の墓ですからこんなものかも知れません。今は隣の安徳天皇稜に移られた安徳天皇のお墓もここにあったのでしょうか。

日本西門鎮守八幡宮

貞観元年(859)大安寺の行教和尚が、豊前の宇佐八幡宮から京都の岩清水に分霊を勧請する途中、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに建てたと伝えられています。境内由緒書はこちら。

ここが安徳天皇を祀った寺で無ければおそらく、寺は廃されこの神社が主体となって、例えば「赤間八幡宮」等と呼ばれていたかも知れません。嘗て源氏の守り神であった八幡大菩薩よりも隣の赤間神宮の方が観光客を集めている、今日この頃。やはりこの世は諸行無常なのでしょうか。

日本西門鎮守八幡宮の神殿狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで

この日は祭りで、神楽殿では観客を集めてショーをやっていました。

天神社 七盛宮