惣社(そうしゃ)八幡宮

山陽小野田市郡755 (令和4年8月18日)

東経131度09分58.00秒、北緯34度02分26.76秒に鎮座。

この神社は、JR山陽新幹線・厚狭駅の南南東1.2km程の辺り、郡の街外れに鎮座しております。

御祭神 應神天皇・神功皇后

由緒
「惣社八幡宮由緒」によると、文治3年(1187)2月11日に、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請して、長門国の宗廟として創建し、箱長門守頼道を大宮司職に補任し、厚西・豊東・豊西三郡を私領として宛行ったとある。
また、「寺社証文」記載の当社社伝には、厚西郡(旧厚狭郡)の地頭箱田小太郎広貞が、源平の合戦のとき源義経の手に属し、壇の浦で軍功を立てたので、源頼朝がこれを賞して、長門守頼道と改名させ社職に捕しとある。・・・・・。
境内由緒書き より。

由緒
社伝文書によると、鎌倉時代の文治三年(一一八七)に、源頼朝が長門国鎮守崇宗廟として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したことによるという。それは、壇浦の源平合戦で、源義経に属して功のあった箱田小太郎広貞を、長門守頼通と改名させ、頼朝が社職に補したに始まるとある。大宮司職は、その後幡生家に移った。江戸時代となり、毛利氏が防長の領主となって、三沢氏が末益村(現山陽町郡)の給領主となった。当社の社地のあった板垣の津を、三沢氏が屋敷地としたため、当社地を現在地の渡田如意山に移した。また、社領は戦国期の天正検地では、「田畑六町七段大三十歩、分米四十石五升八合五勺、畠数二町六段」とある。江戸時代の寛永検地では「十石」に減少したが社領は与えられ、毛利氏の屁護を受けた。宝永三年(一七〇六)、毛利就久が一の鳥居を建立する。明治六年(一八七三)に村社に列せられる。
山口県神社庁公式サイト より。

参道入口

鳥居

境内

玉垣前の狛犬。拡大写真はこちら。

(石工 中山村 七兵衛 嘉永5年(1852)壬子2月建立)

玉垣前、一体だけの狛犬。拡大写真はこちら。

(文政7年(1824)甲申3月建立)

拝殿

拝殿内部

拝殿奥の神殿狛犬

本殿覆屋


石祠