上領八幡宮

美祢市大嶺町東分1620 (令和4年8月18日)

東経131度12分35.20秒、北緯34度10分43.05秒に鎮座。

この神社は、JR美祢線・美祢駅の北1.4km程の辺り、大嶺町東分の街外れに鎮座しております。

御祭神 応神天皇・神功皇后・田心姫命・湍津姫命・市杵嶋姫命

由緒
社伝によると、太古上領付近は四方を大立山で囲まれ、中央部は芦の生えた大沼が多かった。中でも柳の沼が最も大きな沼であって、土地の農民は大立山を伐採し、沼を埋めて田地を造り、そこへ氏神様をお祀りした。御祭神は天照皇大神・蛭子命で、最初臼の上に奉安していた。或年の大風大雨により、この土地一帯は川となり濁流がどうどうと逆巻き、実に凄じき有様であったが、臼の上に鎮座まします祠は不思議にも流れなかった。それを万代嘉六と云ふ人がみつけ、濁流の去った後その地を臼と名付け、其所へ沖田懸りの井手を堰いた。現在もこれを臼井手の堰と呼ぶ。その堰の川下に珍山と云ふ所があり、其処へ御祭神を御遷座し、宇須能峯社と称え祀り、新開鎮守の氏神とした。其の後源頼朝の時代、山城国の石清水八幡宮を勧請し、社殿を岩畔の森へ造営したが、これが上領八幡宮の創建である。その側へ、宇須能峯社をお迎えして奉祀したのが相殿宇須能峯社である。此の岩畔の森を大元とも云い、神を大本の神とも申し伝える。又珍山の麓に穴があり、之を昔から「縁故穴」と称する。此の穴の清水を、十四日の未明に汲み取り精米一斗を炊き、これを糊として桶に入れ、十五日の朝午前六時頃桶のまま神に供える。又神饌は、ご飯を竹筒で押し出し、米の生粉で丸く握り、生茄子を小さく切って塩にもみ、同日正午頃土器に盛り神前に供すのが旧例である。明治六年(一八七三)村社に列する。別記 古来、陰暦八月十五・十六日を以て、例祭日とした。その訳は、十五日は八幡宮の誕生日であるため、八月は八幡宮の八に因んでという。尚、山城国石清水八幡宮を当地へ勧請したのが、八月十五日の夜半であった。この夜は名月が空にうかび、あたり一面は月影が清かであった。この時、珍山の麓にある岩穴より湧き出づる清水を汲んで新穀を炊き、「月御供」と称して、神前に供したという。このように、当社の例祭は秋の名月日に行われてきた。明治五年(一八七二)に陰暦から太陽暦に変更になったが、それ以降も例祭は陰暦の八月十五日であった。然し、明治四十三年(一九一〇)、陰暦を陽暦に訂正し、それ以降は九月十五日を例祭日とした。
山口県神社庁公式サイト より。

境内より200m程南に立つ一の鳥居

参道

二の鳥居

三の鳥居

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(文政10年(1827)丁亥8月15日建立)

拝殿内部

本殿


石像