東八幡宮

美祢市於福町下3257 (令和4年8月18日)

東経131度12分45.59秒、北緯34度14分46.33秒に鎮座。

この神社は、JR美祢線・於福駅の北1.5km程の辺り、於福町下の街外れに鎮座しております。

御祭神 応神天皇 神功皇后 比売神

由緒
於福ノ庄(昔は奥村、後に於福と改称)の鎮守の神である。社地は、於福村開始の旧地である。此の地は高地であって、遠望のきくところであるが、老樹や大樹が鬱蒼として繁茂し、見渡すことが叶わなかった。そこで村を開くため、老大樹を伐採したところ、天地の間を見渡すことができるようになった。村人は大変喜んで、天を仰いで「雲妙に見ゆる所」といい、此の地を今も「雲妙」(雲見え)と称した。また、此の処を「福が開けたり」「福が見えたり」などと喜びあって、念願成就の喜びを表すため福神を祀った。これが「於福」という地名の起源であるという。此の奥村に、比剛荘院という真言宗の古寺があり、この寺に八幡太郎源義家の子孫である多田野重幸という者がいた。この多田野家は鎌倉時代、源頼朝の憎悪を受けて長州に没落して来たという。重幸は建長元年(一二四九)、山城国の石清水八幡宮の分霊を奉じ、自らお供をし当地の比剛荘院へ奉祀し、御社を創建した。重幸は僧となり、寺号を宝寿奄と改称して、自身も清石丸荘坊と名乗り、別当職となった。その子行盛は、この寺の東の方へ八幡宮を建立し、「大福乃宮東八幡宮」と称した。この行盛の時から神主となり、家名を仲原と改めた。延慶二年(一三〇九)、地頭職の窪井肥後守重扶が、社殿を再建する。後、大内氏の命に依り、幕下の杉彦七が社頭を造営する。江戸時代の宝永(一七〇四〜)・寛保(一七四一〜)・延享(一七四四〜)の年間に、藩主毛利家より数度の祈願があった。また寛保二年(一七四二)、徳山毛利家の蓮性院から、銀子二枚と御紋章を賜わった。文久三年(一八六三)、格式が昇進し、厚狭郡惣社と同様に京都本所より大宮司号が免許された。また、山口一〇社大宮司同格の沙汰あるなど、藩政初期から藩主毛利家の直願所となっていた。古くから、社号は「大福乃宮」とも呼ばれ、於福の庄の惣氏神であった(旧村社)。
山口県神社庁公式サイト より。

参道入口

神額

二の鳥居

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(嘉永元年(1848)戊申8月15日建立)

拝殿内部

本殿


天満宮 石碑