降松(くだまつ)神社

下松市河内1984 (令和4年8月21日)

東経131度53分12.89秒、北緯34度00分57.31秒に鎮座。

この神社は、下松市役所の東北東1.2km程の辺り、河内の街外れに鎮座しております。

御祭神 天之御中主尊

由緒
推古天皇3年(595)、都濃郡鷲頭の庄、青柳浦の一松の樹に大星が降り、7日7夜輝いて、「吾は天之御中主尊なり、今より3年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」と云う託宣あり。同5年(597)3月2日、大内氏の祖先、百済国の璋明王の第3皇子琳聖太子が来朝し、桂木山に御神霊を祀り北辰妙見社とたたえ、鷲頭の庄の氏神となる。以来青柳浦は降松と改められる。
推古天皇11年(603)高鹿垣に社殿を遷し、同17年(609)鷲頭山に、上宮、中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の地に若宮を建立し、大内義弘郷は、防・長・石・豊・紀・泉・和の七州の大守となり、応永元年(1394)中宮に五重の塔、並びに仁王門を新たに建立。七州の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集める。慶長13年(1608)火災に遭い、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は、大永三年(1523)大内義興公の再建による。山門(仁王門)は、文化4年(1807)氏子中の再建による。
大内氏滅亡後、毛利の厚い信仰を受け、元和年中(1615〜1623)には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は、明和4年(1767)毛利就馴公の再建による。
明治3年(1870)降松神社と改称され、昭和3年(1928)年県社となる。境内は俗塵を払い古木鬱蒼とし、参拝者の心を粛然とさせる。
明治45年(1912)一大公園を設け「偕楽園」と名付け、春はつつじ・桜、秋は紅葉が錦を飾り、眺望絶佳にして、大正8年(1919)中将長岡外史は「周防第一園」とたたえ記念碑を建立する。
境内由緒書き より。

降松神社公式サイトはこちら。

境内の北西200m程の辺りに立つ一の鳥居

参道

二の鳥居

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(寛政2年(1790)庚戌2月吉日建立)

参道

神門

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿内部

本殿


中宮・上宮鳥居

鷲頭山