老松神社

防府市お茶屋町9-21 (平成20年8月1日)

東経131度34分31.21秒、北緯34度2分28.18秒に鎮座。

この神社は、防府駅の南南東1km程の辺り、お茶屋町に鎮座しております。江戸時代、この辺りは今で言う繁華街だったのでしょうか。

主祭神:素盞嗚命・大己貴命・天穂日命
配祀神:菅原道真朝臣・吉祥女君・菅原淳茂朝臣

老松神社御由緒
 飛鳥時代の白雉三年(652)の創建。当初は須佐神社と称し、娑婆氏がこれを祀ったと伝える。平安時代の貞観十四年(872)、社前に松の老樹が繁茂するにより老松神社と改称した。三田尻地区の産土神である。承安三年(1173)、筑後守秀助が菅原道真公ほか二柱を配祀し、社殿を改築、社田を寄進した。江戸時代の寛保三年(1743)、大火により罹災、この時の祠官荒瀬信古が御霊代を無事搬出するも、伝来の宝物・祭器・古文書・棟札等を消失、翌延享元年(1744)、再建された。社前の楠木は、創建当時すでに大樹であったが、寛保の罹災によって半面に火害を蒙るも枝葉は繁茂し、実に二千有余年を経たる神木である。
 明治五年(1872)、藩主毛利家の別邸英雲荘から稲荷社を合祀、明治十年(1877)恵美須社を三田尻魚市場より遷座した。境外社の住吉神社は、江戸時代の正徳五年(1715)摂津国住吉神社より堀口の地に勧請された。・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

由緒書に登場する、境外社の住吉神社はこちら。

『日本書紀』に、来目皇子(聖徳太子の弟)がなくなり、周防娑婆で殯を行う。との記事がみられるようです。この神社の創建当時、この辺りは「サバ」と呼ばれていたのでしょうか。確かに、今でも佐波と言う地名や佐波川があります。

令和5年1月、メールを戴きました。とても興味深い内容ですので、以下に掲載させて戴きます。

私の実家は山口県防府市で、老松神社は私の産土神でもあります。いつも境内がきちんと掃除されているいい神社だと思います。日本人にとって、お宮の境内は心のふるさとですよね。

ところで、老松神社の説明で、「この神社は、御茶屋町に鎮座しております。江戸時代、このあたりは今でいう繁華街だったのでしょうか」とありますが、江戸時代、あのあたりは「村」でした。繁華街は防府天満宮のあるあたりです。(狛犬の話でなくてすみません)

江戸時代、他の藩でも、殿様の別荘を「御茶屋」と呼んでいたようです。すぐ近くに江戸時代の毛利家の御茶屋があって、市がきれいに整備して、中を見物できるようにしていますが、行かれませんでしたか? 老松さまから、徒歩数分の距離です。江戸時代、毛利藩は藩庁を山陰側の萩においていましたので、参勤交代は、中国山地の山の中を通って、山陽側の防府(三田尻)へ出て、このお茶屋で一泊して、それから船で、あるいは陸路を山陽道から近畿、東海道というルートで江戸へ出たのです。また幕末、毛利藩の三田尻海軍があったのもここです。ここは海へ出る要衝の場所だったのです。

町名の「御茶屋町」というのは新しいです。私が子供のころは、あのあたりは「老松町」と呼んでいたように思います。(江戸時代は、上に言いましたように、「村」でした。まわりは田んぼに囲まれていたはずです。私が子供の頃も神社の裏のあたりはたんぼと畑ばかりでした)

神社入り口

一の鳥居前の狛犬。昭和の狛犬ですがシッカリ萩の伝統を守っている狛犬です。拡大写真はこちら。

(昭和11年(1936)10月建立)

二の鳥居の前には生犬様が・・・

拝殿正面

拝殿前ブロンズの狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和35年(1960)6月1日再建とあります。多分台座の再建かと思われます)

本殿

裏参道入り口

裏参道を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(寛政6年(1794)9月吉日建立)

恵美須社

一光稲荷大明神

御神木の楠