防府天満宮

防府市松崎町14-1(平成20年8月1日)

東経131度34分35秒、北緯34度3分28.62秒に鎮座。

この神社は、防府駅の北約1km程の辺り、天神山を背に防府の町を見下ろすように鎮座しております。地図を見ると国分寺町や惣社町があります。嘗ては、ここ防府の地名ともなった、周國の国があり、律令時代から港町として栄えたようです。

菅原道真公は、平安時代の延喜元年(901)、藤原時平の讒言により太宰権帥に左遷の命が下る。九州へ西下の途時、船を当地勝間の浦へお着けになられた。菅公は時の周防国司土師信貞と同族であったので手厚く歓迎され、そのもてなしと山秀水麗のこの地に心を和ませられた。菅公は、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん」と誓われ、家宝の金鮎一二尾を国司に託され旅立たれた。延喜三年(903)、勝間の浦に神光が現れ酒垂山に瑞雲が棚引いた。異変を感じた国司が、直ちに九州へ使いを遣わせたところ、丁度その日が菅公が薨去された日とわかった。そこで国司は早速菅公の御霊をお祀りし、翌延喜四年(904)八月、今の松崎の地に宝殿を建て松崎の社と号した。これが防府天満宮の創建で、現在全国に一万二千社あるといわれる菅公を祀る社の中でも最古であり、北野天満宮・太宰府天満宮と共に日本三天神と称せられている。創建以来人々の崇敬は厚く、承安二年(1172)、周防目代藤原前筑後守季助が金銅舎利塔を、鎌倉時代の文治元年(1185)、源義経が長門より凱旋の途に甲冑を、また応長元年(1311)、国司土師信定が松崎天神縁起を寄進する。これより以降は大内氏・毛利氏より庇護され、神輿・刀剣・絵馬額等多くの奉納物があり、社殿の修理もなされた。また、社殿は建久六年(1195)、俊乗坊重源により、本殿・楼門・廻楼が建て替えられる。然し、元徳二年(1330)に火災により炎上し旧記等も焼失する。南北朝時代の正平十九年(1364)より、大内弘世・義弘が本殿・拝殿・楼門・廻廊を重建する。室町時代の大永六年(1526)、またもや火災にて社殿の総てを焼失する。享禄三年(1530)、大内義隆が造営釿始式を行い、十月に遷宮をする。その後江戸時代に入ると藩にて造営し、寛政元年(1789)、毛利重就が社殿の総てを重修造営する。また、文政五年(1822)、五重塔造建を発願し釿始式を行うが、時勢により明治元年(1868)、一重に止め完了する。又社坊大専坊は、戦国時代に毛利元就が本陣を設営する。幕末期の慶応三年(1867)、野村望東尼が参籠して七夜七種の祈願和歌を奉納する。また当社に木島又兵衛が屯所を置き、討幕の志士が往来するなど、維新の舞台ともなった。明治二年(1869)、廃仏毀釈により社坊九寺を廃寺とし、住職は復飾して天満宮社人となることを許可された。明治六年(1873)、松崎神社と改称する(旧県社)。
山口県神社庁より。

現在三田尻中関港と呼ばれている所は、平安時代「勝間の浦」と云われていたようです。又、天神山は酒垂山だったようです。神仏が習合していた江戸時代、ここも勿論お寺。名称は酒垂山万福寺。
明治六年、松崎神社と改称したのは、「臣下を祀る神社の宮号禁止」によるものです。戦後晴れて防府天満宮と改称出来たようです。

参道入り口

参道

参道途中高い所に居ます。拡大写真はこちら。

石段上の古〜い浪速狛犬。拡大写真はこちら。

(宝暦9年(1759)8月建立)

参道

楼門

拝殿

拝殿前ブロンズの狛犬。拡大写真はこちら。

(寛政元年(1789)春建立)

本殿

西参道上の狛犬。拡大写真はこちら。

(安政2年(1855)9月建立)

須賀社

老松・若松社

愛宕社

勤皇の女流歌人として知られる野村望東尼の像と歌碑「もののふのあたに勝坂越えつつも祈るねきことうけさせたまへ」。慶応3年冬、社坊に投宿して七日間の断食・水垢離をし、毎日歌一首を手向けられ、倒幕を目指す志士達の戦勝を祈ったと云う。又、この歌碑の石材は彼女が罪を得て流された、玄界灘の姫島から運ばれたそうです。

姫島に流された野村望東尼は、高杉晋作の指揮で、福岡脱藩志士藤四郎、多田荘蔵らの手で姫島から脱出し、下関の勤皇の豪商白石正一郎宅に匿われていたようです。後、高杉の死後、ここ三田尻で死去したということです。

高杉晋作辞世の句。病床の高杉に紙と筆を渡すと「面白きこともなきよを面白く」と書いたところで筆を落とした。望東尼が筆を拾い「すみなすものは心なりけり」と書いて高杉に見せると、高杉は笑い「面白いのう」と言って息を引き取ったと言われています。慶応3年4月14日、享年29。高杉晋作も野村望東尼も明治維新を目の前にしながら、王政復古を見ることなくこの世を去って行きました。望東尼が亡くなったのは慶応3年11月6日。享年62。王政復古の一ヶ月前。

春風楼。文政5年(1822)10代藩主毛利斎煕(なりひろ)は、五重塔の建立を発願し、大専坊にて釿始めの儀・地鎮供養の祈祷を修 する。計画では一辺8m弱、高さ48.1mだったようです。見上げるような巨塔だったと思われます。その後、天保の改革に伴う藩財政改革で、天保2年(1831)工事を中止、その後は幕末のドタバタで手付かずのまま明治維新をむかえ廃藩に至ります。やむなく松崎天神は設計を楼閣様式重層の通夜堂に変更し、文政着工時に造作した塔の一層部組物をそのまま床下に組み入れた楼閣様式建築として、明治6年に、完成させたという事です。当初の計画通り完成していれば国宝瑠璃光寺の五重塔と並んで防府の名所になったかも知れません。