豊烈神社

山形市桜町7-47(平成20年5月5日)

東経140度20分10.94秒、北緯38度15分0.65秒に鎮座。

 この神社は山形駅の北東約800m、山形城跡(霞城公園)と奥羽本線を挟んで反対側に鎮座しています。入口には屋根付きの鳥居のようなものが建ち、右脇には幕末に山形の街を兵火による焼失から救った水野元宣像が建立されています。参道の神明鳥居を潜ると、参道脇には灯籠・狛犬が奉納され、杉並木が続き、左側は広場(例祭日には古式打毬奉納の場となります。)になっています。正面には拝殿・本殿が建ち、その右側には朱の鳥居の奥に境内社の香澄稲荷神社が祀られています。
 尚、境内では沢山の方が清掃に従事していらっしゃいましたが、この方達は地域の老人会のメンバーで、月に一度この社の清掃をしてくださっているそうです。その中にこの社の総代代表の斉藤正吉様が居られ、水野元宣さんの業績や古式打毬(山形市指定無形民俗文化財)の詳細などを教えてくださり、また案内のパンフレットも頂くことが出来ました。

 御祭神:豊烈霊神(水野忠元公)、英烈霊神(水野忠邦公)、八坂大神(素盞雄尊)、山ノ神(大山祇命)、稲荷大神(倉稲魂姫)、明治維新殉難者(山形藩士24柱)
 例祭日:月次祭・毎月6日、元旦祭・1月1日、新年祈願祭・1月1日、どんと祭・1月15日、節分祭・2月3日、春祭・4月6日、夏越大祓・6月30日、前夜祭・10月5日、例大祭(打毬・神輿渡御)・10月6日、新穀感謝祭・11月23日、歳末大祓・12月31日、古神符焼納祭・12月31日
 境内社:香澄稲荷神社
 由緒:文政4年(1821)遠江国浜松城主・水野忠邦公が、藩祖・水野忠元公を城内に祀ったことに始まり、朝廷より豊烈霊神の称号を賜わりました。弘化5年(1848)には、忠邦公の子忠精公が出羽国山形移封により霞ヶ城二の丸内に遷座されました。
 明治3年5月 忠精公の子忠弘氏が近江国朝日山移封の際、山川(茨城県)に遷座されましたが、明治13年10月 旧山形藩士達は勤請して分社を現在地に造立し氏神としました。明治41年5月、旧香澄町各所に鎮座していた八阪神社、稲荷神社を合祀し、大正2年4月には山川の本社を此処に遷座し併合しました。大正10年12月には水野藩中興の祖・水野忠邦公の霊を合祀しました。
 昭和30年10月 明治維新に際し山形市を兵火の災害から救った水野三郎右エ門元宣、また山形防衛戦で戦死した大久保伝平外22氏の霊を合祀しました。
 10月6日の例大祭には武士の作法と精神を重んじたものとして伝承されてきた古式打毬の奉納神事がありますが、これは宮内庁・青森県八戸市長者・新羅神社の打毬と共に日本全国に残る三つの打毬の一つです。
 打毬の起源は非常に古く、紀元前6世紀古代オリエントのペルシャまでさかのぼり、ここからヨーロッパ方面に西回りに伝わったものがポロ、シルクロードを東進し唐を経て平安時代に伝えられたのが日本の打毬です。
 現在行われている打毬は、享保年間(1716〜1736)八代将軍・徳川吉宗公によって復興されたものです。文政4年(1821)第11代藩主・水野忠邦公が、祖先忠元公(豊烈霊神)を祀る社を浜松城内に創建され、10月6日の命日を例祭日と定めて神事として奉納され継承されてきました。詳しくは下記案内にてどうぞ

市指定無形民俗文化財・古式打毬についてはこちらで

社号標 神社入口
入口右脇に建つ水野元宣像
幕末に山形の街を兵火による焼失から救った
山形市民の大恩人と称すべき方です。
詳しくは「水野元宣像の記」拡大写真でどうぞ
参道と境内の様子
建立年代不明の狛犬
出雲丹後狛犬ですが、石の材質が来待石ではなく狛犬自体も少し感じが異なるので、もしかしたら山形の石工さんの作品かもしれません。いわば出雲丹後狛犬山形バージョンでしょうか。
狛犬の拡大写真はこちらで
拝殿
流造りの本殿
境内社:香澄稲荷神社