日枝神社

酒田市日吉町1 (平成22年8月16日)

東経139度50分1.77秒、北緯38度55分3.05秒に鎮座。

この神社は、最上川河口北側の日和山公園のすぐ北東側に鎮座しております。境内は日和山公園よりも広いと思われる程あり、鬱蒼とした杜の中に鎮座しております。又、下日枝神社とも呼ばれ、酒田まつり(山王祭)の中心となっているようです。

祭神:大己貴神(おおなむちのみこと)・大山咋神(おおやまくいのみこと)・胸肩仲津姫神(むなかたなかつひめのみこと)

先人、ここに街を開き鎮守日吉山王大権現を祀る。以来四百九十年風砂を除き砂嚢を積み松林を経営して境内とす。神佛両殿を祀り山王両宮と称せし時代を経て明治に至り、日吉神社と改称。県社に列せらる。街の繁栄と社会の安寧を祈り、ここに祖先の偉業を称う。

人々の幸福と街の繁栄・社会の平和を祈り、お守りいただくために大己貴神・大山咋命・胸肩仲津姫命の三柱の神をおまつりしております。
最上川の対岸、宮の浦の地から川を渡って今の酒田の街をつくった四百五十年前から産土様として深く信仰されて来ました。本殿・拝殿の建物は、明治二十七年の酒田大地震後、大修理を加えましたが、天明年間(二百年前)本間光丘翁が造営寄進されたもので、社殿のまわりに土を盛り松林を育て、防災に工夫をこらしております。
神社では、元旦祭から除夜祭まで四季それぞれのお祭りを行い、国の隆昌と世界の共存共栄を祈りますが、年に一度の例大祭は五月二十日酒田山王祭として市民あげての盛大な神事が行われます。

山王鳥居
神域を表徴する鳥居には極めて多種の様式があるが山王鳥居は明神鳥居の上部に三角形の合掌、或は破風の如きものが加わった当社独特の鳥居である。
昭和三十六年秋強風により従前の木造大鳥居を失い今回篤志の御奉納をいただき二十年ぶりに再建された。御神号額は陸軍大将西郷隆盛公御筆。明治十七年新調のものを再掲した。

随神門
神社の尊厳と境内の警護を願い太玉命・戸屋根命の神像を安置するもの。この門をくぐり参道が曲折しておるのは俗界と聖境を区分し参拝者の精神統一を計ったものである。
天明七年本間光丘建立のものが明治二十七年十月二十二日酒田大地震にて全壊。現在の門は八年の歳月をかけて材質を吟味し、工匠の術を集めて明治三十五年本間光輝が再建したものである。楼門二層造総欅材で威厳と優美の調和が特徴と云われる。門の中央で拍手を打つと、こだまが返るが、天井の微妙なわん曲による反響であり「鳴き天井」は名工の秘術とされ、反響の大小により、神意をうかがったとも云う。「至誠通神」の掲額は東郷平八郎元帥の真筆であり御参拝の本義を示している。
境内由緒書より。原文はこちら。

神社入口に立つ山王鳥居と社号標

随神門

参道

境内

拝殿

拝殿前の狛犬。昭和の狛犬に見えますが、出来も良く、且つユニーク。拡大写真はこちら。

(年代不明)

向拝下の鳳凰

木鼻の狛犬と龍

波乗り兎


随神門前、不明の末社。

大川周明博士顕彰碑

アジア植民地解放の父 大川周明の略歴
明治十九年酒田西荒瀬村藤塚に生まれた。荘内中学(現県立鶴岡南高等学校)時代角田俊次の家塾に起居『南洲翁遺訓』に影響を受け、また横井小楠の卓抜なる見識に傾倒した。熊本五校、東京帝大インド哲学科に学んだ。ふとした縁でヘンリー・コットンの『新インド』を読んで、イギリス植民地下のインドの悲惨を知り、植民地政策の研究へと人生の転換を志した。昭和四年時の満鉄総裁山本条太郎を説いて、満鉄から調査局を分離し東亜経済調査局を主宰、理事長となり、アジア、アフリカの政治経済、社会、文化の調査研究の指導に当たり、また盟友北一輝と共に「猶存社」を創立。更に「行地社」「神武会」を主宰、五・一五事件に連座、獄中で不朽の名著『近世欧羅巴植民史』を著した。
昭和十三年四月、東亜経済附属研究所を設立主宰。日支間の和平、アジア問題に献身し、大東亜戦争では東條に極力開戦阻止を進言したが果さず、戦後A級戦犯容疑者に指名されたが、昭和二十三年暮、不起訴で釈放された。日本は敗戦したが、アジア、アフリカ諸国は独立し、大川の植民地解放の夢は実現した。
大川著『回教概論』はイスラム研究の最高水準をいっている。晩年『古蘭(コーラン)』の翻訳に没頭し、昭和二十五年に岩崎書店より刊行している。昭和三十二年十二月二十四日神奈川県中津に於て逝去。七十一歳
大川周明顕彰会

戦後GHQにより封印された先人の業績を、多くの日本人に知って欲しいものです。

東参道