寒河江八幡宮

寒河江市八幡町五番七十号(平成20年5月4日)

東経140度16分28.34秒、北緯38度22分29.46秒に鎮座。

 この神社は寒河江市役所の南西約600m、長岡山の一角に鎮座しています。23号線に面して朱の一の大鳥居が建ち、二の鳥居を潜った後は深い森の中を石段の参道で上がっていきます。森が切れ明るい境内に出ると正面には豪壮華麗な拝殿が建ち、木々の間から安土桃山時代に建立された流れ造りの本殿が垣間見られます。境内には境内社、末社、石碑などが点在し、社殿も境内もよく手入れされた気持ちの良い神社でした。

 主祭神:誉田別命(応神天皇、)、神功皇后、比淘蜷_ 配祀:大山祇神
 例祭日:1月1日・元旦祭(初詣)、2月11日・紀元節祭・建国記念日奉祝式典、2月(旧暦初午)・稲荷神社(境内末社)初午祭、4月28日・新山神社祭(境内末社)市内南町新山講、4月29日・講社大祭(春祭り)、5月16日・厳島神社(末社)例祭、6月30日・茅輪神事・夏越大祓、7月1日・水神祭、9月9日・流鏑馬参籠始祭(例大祭迄一週間のオコモリ禊潔斎)、9月14日・前日祭、(南部地区渡御・古式流鏑馬奉納)、9月15日・例大祭、(本町地区渡御・作試し流鏑馬奉納)東北一の大神輿渡御・神輿の祭典、9月16日・終了報告祭(流鏑馬参籠オトキ)、11月23日・新嘗祭(氏子青年神輿會による御神田献米)、12月13日・煤払い、12月31日・晦(つごもり・年越)大祓・除夜祭
 境内社:高良神社・新山神社、稲荷神社、開運之神、水神様
 由緒:旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社です。寒河江本郷17ヶ村の総鎮守で、かつては川西鎮守と称しました。
 出羽国風土記・古社縁起等に依れば、今の高瀬山(郊外、島地区)近くに血縁・氏族等の大聚落の守護神があり、康平5年(1060)源頼義・義家奥州平定(前九年の役)の祈願をし、その霊験あらたかだったので、寛治7年(1093)に八幡宮をお祀りし、神主1人を置き3000坪を奉納しました。
 後に、大江広元が文治5年(1187)源頼朝より寒河江荘を賜り、最上川西一円の地頭となり、建久2年(1191)産土神・鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請し、社人4人と田地1000石を寄進し、併せて現在地に遷座しました。
 以来400年間大江城主は、神を敬い民を撫し水利を興し田畑を拓き、祭政一致殖産興業を勧奨し大いに仁政を布き氏子の信仰も篤かったのですが、出羽守・最上義光に天正12年(1583)に亡ぼされました。義光公も敬神の念篤く文禄年間より黒印を与え、また後江戸時代には幕府直轄の御朱印となり、谷地八幡宮・溝延八幡宮とともに「寒河江荘三八幡」と称され、武家の崇敬を受けてきました。昭和15年に県社に昇格し、元の社名は「八幡神社」でしたが、神社本庁の別表神社に加列される際に現在の寒河江八幡宮に改称しました。

 寒河江の祭の最大のものは、寒河江荘の総鎮守であった寒河江八幡宮の祭で、800年以上の伝統があるようです。
 室町時代に寒河江城を大修築して城下町を整備したころ、この八幡宮に馬場が作られ、鎌倉八幡宮で行われていた放生会の流鏑馬儀礼を取り入れたものらしいということです。
 江戸時代、寒河江は幕府の直轄地となり、「寒河江千軒」の町として繁栄し、正徳年間(1711〜1716)ころから神輿が町を巡行し流鏑馬も作試しと称して稲作の吉凶を占うものに変化していました。享保12年(1727)の祭礼時からは、チャンチャンネンツンと称する若衆の手による「祇園囃子」も町を廻る様になりました。文化・文政の頃からは飾り屋台や山車が巡行して、さらに豪華な祭りとなりました。
 近代に入ると、神輿に武者行列と奴がつき、閏年の祭の日には、この奴と内楯獅子踊組が各所で衝突、寒河江の祭は熱気を帯びていき、戦後の仮装行列も寒河江祭の圧巻な出し物となりました。

「寒河江八幡宮由緒」はこちら  「寒河江八幡宮公式サイト」はこちら

道路に面した一の大鳥居
参道の様子 二の鳥居
二の鳥居前、嘉永3年(1850)生まれの浪速狛犬
典型的な浪速ですが、剥落が進んでいます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(嘉永3年(1850)8月15日建立)
二の鳥居脇の庚申塔等 二の鳥居奥の末社
参道の様子
参道は途中で平坦地に出ます。 境内入口
豪壮華麗な拝殿
拝殿内の様子 本殿
境内社:高良神社・新山神社
境内社:稲荷神社
稲荷神社縁にいる可愛い木製狐さん
滑らかで優しそうな顔つきをしていて、眉毛や髭まで蓄えています。東北地方の狐さんはどうしてこう好感の持てるものが多いのでしょう、羨ましい限りです。
開運之神 水神様
末社、湯殿山 御神濡水
太神宮、末社 芭蕉句碑
「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」
神輿