矢宮神社

和歌山市関戸1(平成18年3月27日)

 この神社は、和歌山市内から国道42号線で南下し、和歌浦西一丁目の信号で右折。社会保険事務所を過ぎると右手に鎮座しています。

 案内によると、御祭神は賀茂建津之身命(八咫烏命)で、神武天皇東征の際、熊野から大和を目指したおり山が険しく進退きわまってしまった時、大鳥の翔ぶが如く皇軍を導いたとされ、また時には賊将に帰順を勧めるなど、様々な勲功をたてられた大神です。創建は第33代推古天皇の御世(在位592年〜628年)と伝えられ、御祭神の賀茂建津之身命の子孫が大和国からこの地に移り住んだ際、現在地に奉祀した ものと伝えられています。
 戦国時代の紀伊国・紀ノ川流域では、上流は高野山、中流は根来寺、そして下流は雑賀衆が勢力を持っていました。天正5年(1577)、天下を統一しようとする織田信長は大軍を率いて雑賀荘へ攻めかかってき、驚愕した人々は矢宮に一心にお祈りをしました。すると、「敵兵は3月3日の干潮をねらって雑賀川(和歌川)をおし渡り攻めて来るであろう。わたしは雑賀の人々のために海の潮を退かさないであろう。」というお告げがあり、果たしてその日は干潮にもかかわらず潮が満々としていて、雑賀孫市を大将とした雑賀軍は敵軍を退け勝利をおさめることができました。けれど結局はその後の執拗な信長軍の攻略には打ち勝てず、矢宮神社は戦火によって消失してしまいましたが…。徳川の世になって、初代紀州藩主徳川頼宜公は、寛永14年(1637)に矢宮を再建され、代々の紀州藩主はこの神社を紀伊国の大社として尊び、社殿の増築や修理、寄進や奉納を絶えることは無かったということです.
 今はそんなに広大な神社という印象は受けませんが、この神社の神主さんはとても気さくな方で、色々とお話ししていく内に早稲田大学出身と言うことが分かり、その青春時代を私達の現住所に極近いところで過ごされたと言うので余計話が盛り上がり、有意義な楽しい時間を過ごすことが出来ました。

神社入口 初代紀州藩主・徳川頼宜公奉納の灯籠
社号標と御祭神の石碑
      
安政6年(1859)生まれの素朴な浪花狛犬。
この地域で時々見かける狛犬ですが、頭上が扁平で耳垂れ、
お団子のような鼻をしていて歯並びが綺麗です。
鬣が比較的短く、ストレートに伸ばした前脚等の特徴が見られます。
(安政6年(1859)建立)
拝殿前のしょうわ狛犬
(昭和57年1月吉日建立)
横に広い拝殿 拝殿内の様子
拝殿の一番右脇の大神神社、伊勢神宮
拝殿右脇の春日神社、住吉神社
拝殿左脇の金刀比羅宮、稲荷神社
屋根しか見えない本殿