和歌山市和歌浦西2(平成18年3月27日)
(平成18年5月8日)(載・追記)
(平成18年6月18日)(載・追記)
この神社は、太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本の三菅廟と言われており、和歌山市内から国道42号線で南下し、和歌浦口信号を右折。海岸通りを進み御手洗池公園の信号を右折すると右側に鎮座しています。
由緒書きによると、延喜元年(901)菅原道真公が大宰府に左遷され、その赴任の途中海上の風波を避けるため和歌浦に立ち寄ったおり、地元漁民達は歓迎のため網を引き公を歓待しました。公はそのおりこの地の風光をめで二首の歌を詠まれたと云います。この事から古には網引天神ともいわれていたそうです。その後、慶保年間(964〜968)道真公に同行した橘直幹が大宰府からの帰京の途中、ここに宝殿を建て菅公の神霊を勧請したのが和歌浦天満宮の創建とされているそうです。
この地は万葉の昔から歌に詠まれた景勝地で、最古の記録は聖武天皇の行幸(742年)だそうで、行幸のお供をしていた山部赤人は「和歌の浦 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たず)鳴き渡る」の歌を残しました。又、白河上皇も熊野詣での砌、ここに立ち寄っています。天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めの兵乱に巻き込まれ、社殿、古記録、宝物などことごとく消失し、一時は荒廃の一途を辿りましたが、その後、紀州歴代藩主の篤い庇護を受け、現在の社殿は慶長11年(1606)に紀伊藩主・浅野幸長が再建させたものです。
境内は天神山の中腹にあり、段差が大きくて幅が狭い急な石段登りは辛いものがありますが、東照宮と違い、桃山風の華麗、かつ力強く迫力がある彫刻が、めいっぱい彫られた本殿を間近で見ることが出来る環境は、その辛さを凌ぐ喜びでした。また、楼門から振り返る和歌浦湾の穏やかな様子は、古の都人為らずとも深い感銘を受ける見事な光景でした。
【関西支部 Showちゃん通信員より】
社殿は紀州徳川家の前の和歌山藩主であった浅野家によって建てられました。神社の本殿としては珍しいのですが、背面中央に扉があります。この扉に今ではほとんど判別が着きにくいのですが・・桐の模様があります。桐は豊臣家の家紋です。元家臣であった浅野家が表向きには菅原道真を祀り天満宮ながらも、実は隠れて豊臣秀吉を祀った豊国神社として建てた物と言われています。
本殿裏側の扉とは非常に珍しい物と思いますし、其処に豊臣家の家紋が有るとは…。一般の観光客としては窺い知ることの出来ない場所です。流石、古建築に造詣の深いShowちゃんの情報網は凄いものがありますね。これからも、私達素人には入りにくい貴重な情報がありましたら、宜しくお願い致します。
更に「【関西支部 Showちゃん通信員より】先日半日時間が開いたので和歌浦に行って来ました。」とのメールがあり、最下段に追記と写真を掲載しました。ご覧ください。
社号標 | |
神社入口 | 境内への急な階段 |
重要文化財の楼門 | 楼門から見晴るかす和歌浦湾 |
唐門、瑞垣、東西回廊と、重要文化財の本殿 | |
唐門、瑞垣 | 本殿裏側から |
本殿・桃山風の華麗、かつ力強く迫力がある彫刻 | |
末社、向かって左から 多賀神社、豊受大神宮、天照皇太神宮の三社。 こちらは、傷んではいますが極彩色の装飾が 施されているのがすぐ近くでみることができます。 |
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末社・稲荷社の小さいけれど厳つい感じの昭和狛犬 | |
(昭和13年10月建立) | |
筆の労に報い、筆道の上達を願う筆塚 | 境内左手の末社 |
末社前の玉眼が填め込まれていたと思われる狛犬。 この造りは結構短期間の製造で終わってしまったので、江戸末期の狛犬かもしれません。 |
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参道、境内に咲いていた花々 | |