熊野本宮大社

田辺市本宮 (平成18年3月29日)

東経135度46分34.71秒、北緯33度50分13.99秒に鎮座。

元は熊野川に音無川などの川が合流する中州の大斎原にあったが、明治22年の洪水で社殿が倒壊・流失し、現在の社地に移った。又、古くは「熊野坐(くまのにます)神社」という名で呼ばれていたようです。熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮です。

本宮縁起
当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、 全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として、 広く世に知られています。
 御主神は家都美御子大神即ち素盞嗚尊と申し、 樹木を支配される神であり、紀の国(木の国)の語源もここから 起こっております。
 大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との 交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに、生命の育成発展を 司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を 造営して、鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから、修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜七年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ、約三百年にわたり法皇・上皇・女院の御幸は実に百数十回に及びました。
 これが史上有名な熊野御幸であります。これと前後して、当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は、全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣で」とか「伊勢に七度、熊野に三度、どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに、全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えています。
 その後、源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱と、さまざまの変災の渦中にありながら、人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は 熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
 現在の社殿は享和二年徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現、国史跡・大斎原)に建立されましたが、明治二十二年の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は別社地と呼び、石祠二殿、仮宮として西方に中四社・下四社を、東方に元境内摂末社と合祠してあります。
境内由緒書き より

平成25年10月13日、来戸さんよりメールを戴き嘗て我々が撮り忘れた、参道入口左右、黎明殿前の狛犬の写真を戴きました。有難うございます。ついでに全体も再編成して掲載いたします。

参道入口

鳥居と社号標
入口左右の招魂社系狛犬。拡大写真はこちら。

参道と129段の石段

境内入口

神門

第一殿・第二殿の相殿

参拝後格子の隙間から中を覗くと一対の神殿狛犬が見えました。
中央にある第三殿「証誠殿(しょうじょうでん)」。 右の第四殿は東御前(ひがしのごぜん)」。

阿弥陀如来を本地とした家都美御子大神を主神とする本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は「証誠殿(念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれていたそうです、私もこれで浄土往生、間違い無いでしょう。

満山社。現在(平成25年)は社殿が再建されているようです。

御神木のおがたまの木。

祓戸大神

黎明殿

黎明殿前の招魂社系狛犬。拡大写真はこちら。

黎明殿内にお住いの狛犬。

御朱印